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勤続20年を迎えた、営業部門の部長に話を聞かせていただきました。

 

 

坂蓋部長は、主に石川県内と北陸3県を活動エリアにしていただいています。まだ、金沢箔という言葉もほとんど知られていなかった時代から、箔一の存在を多くの人に知っていただくために奮闘いただきました。彼女が勤続20年を迎えるにあたり、これまでのお話を聞きました。

 

 

 

 

 

まだ金沢箔が、あまり知られていない時期から。

 

浅野

坂蓋さんが入社されたのは2001年。当時は、私は専務で主に東京にいた時期でした。

 

坂蓋

女性の営業を探しているということで、知り合いの方を通じて、お声がけをいただきました。会長、社長はじめ、当時の役員の方々に面接していただいたのを覚えています。NHKの大河ドラマで「利家とまつ」が放送された年でした。

 

浅野

そうでしたか。大河ドラマは、一つの起爆剤でしたね。箔一としてもOEMや卸しから、一般のお客様へ直接アプローチすることへと意識が変化していく時期でした。

 

坂蓋

あの頃は、とても動きが早かったのを覚えています。2002年に箔巧館を観光施設にリニューアルし、尾張町に直営店を出しました。金沢ブームで全国の催事に飛び回っていましたし、青山にはショールームができました。そうした中でも社長は、ドイツやフランスの展示会にも出かけていました。

 

浅野

とにかく動き回っていたから、金沢の本社にも、なかなかゆっくり顔を出せなかった。

 

坂蓋

ただ当時は、金沢箔などと言ってもなかなかわかってもらえませんでした。金箔といって、少し通じるくらいでした。

 

浅野

そうですよね。石川県の工芸品といえば、輪島塗、加賀友禅、九谷焼が圧倒的に強かったころです。

 

坂蓋

私が入社したころ、すでに圏内営業のようなチームもありましたが、基本的には納品をするだけの部署でした。そこで、私が営業として入って売り場を増やそうとしたのですが、当時はなかなか話も聞いていただけませんでした。「資料あるなら、おいていって」というだけのことも多かったです。

 

浅野

私も、そのころの記憶は鮮明にあります。商談といっても、椅子になんか座らせてもらえなかったし、業者会でもいつも末席だった。

 

2006年に、5年の永年勤続表彰をうけられたとき。

 

 

 

経営者の人脈から、現場の人脈へと。

 

坂蓋

初めて加賀屋さんに行ったのは、納品のときのご挨拶でした。見ると、私たちの売り場は30㎝ほどの幅しかない。当時の金沢箔の位置づけを象徴しているかのようでした。

 

浅野

いまとは、比べ物にならないですね。

 

坂蓋

当時から会長や社長の人脈で加賀屋さんの方々ともつながりがありました。あるとき、そういった関係の中で、加賀屋さんの現場の人たちと食事会をする機会にめぐまれました。その時のメンバーが、様々に相談をしてくれるようになりました。

 

浅野

いまでは加賀屋さんでは、売店だけでなく、アメニティや、厨房、調度品などでも使っていただいています。私たちとしては、とても良い実績となりましたね。加賀屋さんとお取引ができたのは、私たちにとっても誇りであり、自信になりました。

 

坂蓋

売り手目線ではなくて、加賀屋さんに宿泊する人の目線で、どうやったらお役にたてるのかを考えることで、少しずつ相談されることも増えていきました。ただそれも、会長や社長の人脈があったからこそです。小松空港にも、かつては売り場が全くなくて、どうやって入っていこうか考えていました。そこでも社長の人脈から、商談のチャンスをいただきました。

 

浅野

あの頃、小松空港には2社ほど金箔屋が入っていて、私たちには門戸を開いてくれていなかった。

 

坂蓋

それでも商談の結果、1ヶ月だけの期間限定で商品を置いていただけることになりました。特設販売のようなものでしたが、そこでの成果で継続できるかが決まるということで、必死でした。空港内をよく観察すると、他社は観光土産のようなものばかりを売っていました。しかし、小松空港の利用客はビジネスがメイン。そこで、ビジネス客向けのセットアップを作って販売することにしました。その結果、大きな成果があり、いまでもお付き合いが続いています。

 

浅野

坂蓋さんが、頼りになるのは、そうやって自分で考えて動いてくれるところですよね。もちろん、私たちには経営者同士のお付き合いというものがある。でも、経営者というのは簡単には腹の内は見せない。にこやかに話しをしていても、内心では駆け引きをしていることもある。懇意だからといって、それで簡単に取引ができるような甘い世界ではない。

 

坂蓋

そうしたお付き合いの中からチャンスを作っていただけるのが、私たちにとっては大きなプラスになっています。小松空港でも、社長が小松空港ビル協力会の役員を務めていただいていることで、強い関係性が生まれています。

 

浅野

ある業者会に行ったときに、坂蓋さんが一生懸命、みんなに話しかけ、お酌をして回っている姿を見ました。それを見て、すごくありがたく思いました。坂蓋さんが、現場同士での付き合いをしっかりやってくれるから、経営者は経営者同士の付き合いができる。それぞれのレベルで信頼関係を築くことで、個人の人脈だったものが、会社の財産になっていく。

 

坂蓋

いまでは、内覧会などを行うと、私だけでなく、若いスタッフたちが自分のお客様を連れてきてくれます。皆様をお出迎えして、社長にも挨拶していただく。そうすることで、お客様もとても安心されるようです。

 

 

 

 

地元で売り場をきちっと持つことの大切さ。

 

浅野

坂蓋さんは、部長としてよく部門をまとめていただいていますよね。でも若いころの坂蓋さんは、一匹狼という印象が強くありました。

 

坂蓋

前職が証券会社の営業でした。一人で動くことが多く、人に頼むより、自分でやったほうが早いと考えてしまう癖がありました。

 

浅野

証券なんかだと、営業は自己完結していることが多いのでしょう。でも、私たちはチームプレイが大事。坂蓋さんの自分がやらなければという責任感は良いことだけれども、それではつぶれてしまうかもしれないと心配でした。

 

坂蓋

それで、社長からもご指摘があって、仕事の仕方を大きく変えることになりました。それまでは、売り上げを作るためにがむしゃらに動くことばかりを考えていました。

 

浅野

箔一が、個人商店でよいということであれば、その動き方でも問題ありません。でも、私はきちんとした企業にしていきたかった。そう考えると、営業もより効率的に仕組みで動かしていく必要がある。

 

坂蓋

それで、より戦略的に動くことに変わり、地域の一番店を大切にしていこうとなりました。

 

浅野

坂蓋さんの役割には、売上をつくることよりも、もっと大きなものがあります。というのも、私たちのような企業は、地元で愛されることがなによりも大切です。この地域において大きな存在感を持つことは、全国に販売網を広げるうえでも武器になります。金沢のような城下町には、目に見えない序列がある。それは、すぐには変わりませんが、少しずつ変化していくものです。箔一は、ゼロからスタートした会社。最初は、なかなか相手にされていませんでしたが、いまでは一定の存在感を持てたと思っています。私は2代目ですが3代目、4代目と続いていけば、さらに立場も変わっていくでしょう。そういうベースを作っていくことが、坂蓋さんにお願いしている仕事です。

 

坂蓋

それぞれのエリアで、重要な役割を担っている方々と協力しあえる関係を築くこと。また、主要な施設にきちっと売り場を持つこと。そうすることで、私たちの人脈も広がり、行政の方々からも一目置かれるようになることにも気づきました。

 

浅野

箔一が、付き合っておいたほうがいい、付き合っとかないと損だ、という存在になれるとよいですよね。それが、会社の基盤になっていく。

 

 

 

 

厳しい時期にも、お客様目線を大切に。

 

坂蓋

いまは、コロナの影響もあって、思うように成果が出せないことが続いています。ただ、そうした中でも、社長が私たちの部署を箔一に欠かせない存在だと言ってくださるのが、励みになっています。

 

浅野

いまこの時期は、坂蓋さんは大変だと思う。この状況で、一生懸命作ってきた売り場がある日突然なくなってしまうこともある。本人の努力とは関係のないところで、打撃を受けている。ただ、そうしたことにも立ち向かっていく。負の感情に支配されないところも立派だと思います。

 

坂蓋

ありがたいと思うことは、コロナの影響を大きく受けているお客様でも、取引をやめるというところがないことです。減ってはいても、ゼロにはならない。それは、希望にもなっています。私たちは、コロナであっても、お客様への提案は欠かさずやっています。そうしていけば、いつかコロナ終わったときに、取り返していけると考えているからです。

 

浅野

ありがとうございます。こういう苦しい時期に、前向きな言葉を語れるリーダーは大切ですよね。会社が言っているから、社長が言っているから、ということではない。その部署を預かるリーダーが自分の意志で語ることは、とても大事だと思っています。

 

坂蓋

こういう時期にあって、箔一が自分たちで商品を作っていることが、とても大きな強みであることを改めて感じました。他社で、仕入れ中心でやっているところなどは、在庫を抱えるのが怖くてしばしば欠品を起こしています。そうすると売り場がなくなり、やがて縮小していきます。私たちは、常に豊富な商品を持っています。これは、本当に強いことだと思います。

 

浅野

力強いですね。坂蓋さんのその前向きな姿勢が、部下を育てるということにもつながっていると思います。坂蓋さんの部署は、箔一のすべての分野の商品を扱っているし、メンバーも中途採用の人、新卒採用の人、パートナーさん、また男性女性、若手やベテランといった多彩な人材がいる。人材育成の部署としても、貴重な存在です。

 

坂蓋

年末年始に、メンバーに担当してもらっているところへご挨拶に回らせていただきました。そこでのふるまいをみて、部下の成長も感じました。

 

浅野

きっと、本当の意味でのマニュアルができているのでしょう。手順書と違い、本来のマニュアルというのは、作業のやり方だけでなく、その意味や背景についても説明しているもののことです。それがあるから、一人ひとりが自主的に動きつつも、チームプレイになっていく。

 

坂蓋

大切なことは、いつもお客様目線でいること、箔一の商品を愛していることだと思っています。自分が大切に思っている商品だから、人にも勧められます。私は、箔一でもずいぶん上の世代になりました。これからを担っていく、若い世代の人たちに思うことは、もっと自分の意思を表現してもいいんだよ、ということです。箔一は挑戦することを高く評価する会社です。私自身、ひとりで悩み、悶々としていたことでも、社長に相談したら「やってみればいいじゃん」の一言で解決したことが何度もあります。やりたいことがあるなら、言わなきゃ損です。不安や不満だって、表に出したほうが、すぐに解決します。おとなしいよりも、喜怒哀楽を思い切って表現するほうが、箔一らしいと思います。

 

浅野

若い人たちに、そういった考え方や、経験をぜひ伝えていってください。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

 

坂蓋

こちらこそ、よろしくお願いします。

 

小松美羽さんのライブペインティング。

 

身延山久遠寺(みのぶさん くおんじ)は、日蓮宗の総本山であり、高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊山の一つです。750年もの歴史があり、仏教の聖地とされています。

 

 

 

今回、この地で、現代アーティスト小松美羽さんによるライブペインティングが行われました。箔一では、かねてより彼女に金箔装飾のキャンバスを提供しており、この日も、当社で制作したキャンバスが使われることもあって、ご招待をいただきました。良い機会ですので、生産部のメンバーと共に身延山を訪れてきました。

 

 

 

このライブペインティングは、日蓮聖人降誕800年慶讃記念事業として行われました。

 

本堂の正面に三連の丸いキャンバスが設置され、30名もの僧侶たちが祈祷を唱えるなか、小松さんは一心不乱に、神獣を描きだしていきます。その姿は、圧倒されるものがありました。久遠寺の神聖な雰囲気や、かなりの音量で響く祈祷の声も素晴らしく、得難い体験をさせていただきました。

 

 

 

ここで描かれた作品は、久遠寺にて、永久に保存されることが決まっています。

 

「永久」という言い方は、決して大げさではありません。日蓮上人の生誕から800年。久遠寺ができて750年。この地は、そうした時間の流れのなかにあります。遠い未来に、私たちの子孫がこの作品を見ることがあるでしょう。そのとき、どのような印象を与えられるのか。私たちの提供したキャンバスが、どのように語られるのか。とても興味深いものがあります。

 

 

 

そうした想像が膨らむ理由のひとつに、この寺にある、名作「墨龍」の天井画があります。これは、戦後を代表する日本画家である加山又造氏が描いたもので、これもまた、永久に守られるべき名画です。小松さんの作品が、そうした名作と並んで、歴史に残る存在になっていくことは、キャンバスを提供したものとしても、非常に感慨深いものがあります。

 

 

 

身延山までは、金沢から片道5時間以上。早朝3時出発という行程でした。それでも、ものづくりを行っているメンバーたちが、積極的に参加をしてくれました。とても喜ばしいことです。

 

彼らが、小松美羽さんを見て何を感じたのか。経営者として気になるところです。

 

 

 

私たちの会社は、一つひとつ丁寧にものを作ること、技術を磨くことについては、自信を持っています。これを客観的に示すこともできます。ですが、人の心を動かそうと思ったときには、そうした技術を超えた何かもまた必要になってきます。

 

人にエネルギーを与えられるものは何か。それを追求するのは、ものづくりにかかわる人間にとって、永遠のテーマといえるでしょう。それを知りたいと思えば、井の中の蛙ではいけません。外に出て、レベルの高い人と会い、刺激を受け、自分の足りない部分を知る。そうした経験を重ねることで、より高みを目指せます。

 

生産部のメンバーが今回の経験を得たことで、箔一のものづくりがこれからどう進化していくのか。それを、とても楽しみに感じた一日でした。

 

箔一のお店の基礎を築いた、接客のプロが勤続20年となりました。

佐々木アドバイザーは、いま、店舗全体の指導を担当されています。昨年で、勤続20年を迎えられました。その期間、私たちの店舗の在り方は大きく進化し、たくさんのお客様をお迎えできるようになりました。その中心にいたのが佐々木さんです。彼女は、販売スタッフとしても大変に優秀です。現場に立つことが少なくなった今でも、佐々木さんから買いたいと、指名が入ることもしばしばです。これまでの感謝の気持ちをお伝えするとともに、仕事に対する想いをお伺いしました。対談記事にまとめましたので、ぜひご一読ください。

 

 

前例のない中で、キャリアを築いてこられた20年。

 

浅野

これまで20年、ありがとうございました。佐々木さんは、もともとは、パートとして入社されて、しばらくは生産業務についていただきました。その後、正社員となり、管理職となって、現在では、全店を指導するアドバイザーとして活躍されています。今年からは定年制の延長に伴って、もうひと頑張りしていただくことになりました。箔一では、パートから管理職になったのも初めてなら、定年延長も初めてのケースです。そういう意味では、前例のない中でキャリアを築いてこられました。

 

佐々木

はじめは、生産部のパートとして入社させていただきました。検品などの業務のかたわら、箔巧館の地下で箔移しの実演なども行っていました。当時、箔巧館では食用金箔の生産もしていましたから、お客様がいない時は生産をして、お客様がいらっしゃったら実演と、一人二役をこなしていました。

 

浅野

あの頃からパートさんたちは、責任感が強かったですよね。だから権限を大きくして、異変を感じたら、生産ラインを止めることもお願いしていました。佐々木さんも、そうした優秀なパートさんの一人でした。

 

佐々木

当時は、先輩たちにも、できる方がたくさんいらっしゃいました。本当に、勉強になることばかりでした。


浅野

佐々木さんは、そのあと店舗に異動になり、販売スタッフになったのは、箔巧館ができて数年が経ったころでした。ですが、そのころ、店舗の運営が大変な状況になりつつあった。

 

 

 

 

お店の在り方が変わっていく中、最前線で支えてくれた。

 

佐々木

当時、上司の判断で、店舗のスタッフが商品開発もやるということになりました。ですが、お店にいると、なかなか時間がとれません。現場にはかなり負担が大きかったのです。

 

浅野

あのとき、私も入社してまだ年月が浅く、最前線の営業としてお客様を開拓しながら、生産もみていました。店舗のかじ取りは、別の責任者がいて、管轄ではありませんでしたが、何とかしてあげたいと思っていました。

 

佐々木

当時の責任者だった上司も、成果を上げるために一生懸命だったと思うんです。ただ、金沢にも活気が生まれて、箔一のお店も増えていました。お客様もどんどん増えてきていて、スタッフ不足に陥りかけました。

 

浅野

それで、私も会長に直訴をして、店舗運営を自分の担当にしてもらいました。ただ「なんとかする」と宣言したものの、課題は大きかった。正直、店舗戦略をいったんリセットして、ゼロからの再スタートも考えたくらい。でもその中で、佐々木さんが踏みとどまって、最前線で頑張ってくれた。それが、私にとっても、箔一にとっても大きな希望になりました。

 

佐々木

私自身も、ちょっと大変だったという思い出はあります。ですが、お客様がいましたから。まとまった受注があると、納品するのは数か月先になります。やりかけた仕事を途中で放り出すわけにもいきませんでした。

 

浅野

そう思ってくれるのが佐々木さんの責任感ですよね。

 

佐々木

お客様は、信頼して仕事を依頼されたわけですから、そのことについては、お応えしないといけないと思っていました。

 

浅野

当時は、人も少なかったから、一人二役、三役こなさないといけなかったし、誰かを頼ることができなかった。自分の責任は、自分で果たすというのは当たり前でした。

 

佐々木

浅野社長(当時は専務)ですら、海外の展示会に出かけるときには、たった一人で荷物を背負って行かれていました。そういう姿も見ていたし、甘えられなかったですよね。あの頃、一緒に苦労した人たちとは、今でも良い関係が続いています。

 

 

 

 

意見を認められて、お店作りの楽しさを実感しました。

 

浅野

あの時は、箔一の店舗戦略が大きく変わっていく時期でした。それ以前から直営店はありましたが、私たちにとってはアンテナショップという位置付けに近かった。それを大きく転換して、もっと店舗を伸ばしていきたい、もっと広く金沢箔を発信していきたいという想いが強くあった時期でした。その計画が前に進んだのは、あの時、佐々木さんが頑張ってくれたからだと思っています。

 

佐々木

私にとっては、お店の運営が楽しかったということもありました。責任は感じていましたが、自由もあって、商品選定から什器の手配、企画などにも携われました。自分の想いをぶつければ、それが認められる空気がありました。

 

浅野

私は経営者ですから、コンセプトやマーケティングに基づいて戦略を描いて、お店を準備するところまではできます。でも、その戦略を具体化していくのは現場の人ですよね。その意味でも、佐々木さんの存在は大きかった。

 

佐々木

それぞれのお店の考え方や戦略、お客様の心理などについて、良くお話しされていたことを覚えています。2004年から金沢駅の百番街店の店長にしていただきました。社長からは、北陸新幹線開業の2015年までに、箔一の存在感を高めて、他社に比べて優位な地位を築いてほしいという指示がありました。

 

浅野

良く覚えていますね。でも確かに佐々木さんは、その通りにやってくれました。実績をあげることはもちろん、デベロッパーの方々とも強い信頼関係を作ってくれました。これは今でも、私たちの大きな財産になっています。

 

佐々木

社長は方針を示されますが、やり方については、かなりの裁量を認めていただけます。金沢駅の百番街店の時は、観光の人が多いと予想していましたが、お願いして、予定になかった高額な工芸品も置かせていただいていました。

 

浅野

経営者からすると、金沢駅のような小さなお店では、坪効率を意識しますよね。お客様の心理からしても、欲しいものがすぐ見つかる店にしないといけない。そう考えれば、おのずと置くべき商品も決まってきます。ただ、現場の肌感覚というのは理屈では割り切れない部分がある。

 

佐々木

もちろん、金沢の玄関口にあるお店ですから、観光の方のお土産需要は大きいです。気軽に買えるものも大切です。それでも、工芸品を好きな方が、旅の途中に良いものをお求めになるケースもあると思ったのです。

 

浅野

そういった、現場で感じたことを共有してくれるのは、大切なことです。経営と現場とが前向きにキャッチボールできると、戦略は進化していきます。

 

佐々木

私たちからすると、意見を認めていただけることで、お店を作ることを、楽しいと感じることもできました。

 

浅野

佐々木さんは、良い意味で、自分の店という意識や責任感が強いですよね。だからこそ、佐々木さんのファンになるお客様もたくさんいるのだと思います。

 

 

 

一つひとつ丁寧にすることで、お客様は増えていく。

 

佐々木

あるお客様がいらっしゃったとき、見覚えがあったので、「半年ぶりですね」とお声がけをしました。お話をしてみると、東京のメーカー勤務の方で、確かに半年に1回ずつの用事があって金沢に来られていました。そこでお話したことがきっかけで、いまでもずっと、金沢に来るたびに顔を出していただいています。そうしたことの積み重ねで、お客様が増えていったように思います。

 

浅野

佐々木さんは、なにか特別なこと、魔法のようなことしているわけじゃないですよね。一人ひとりのお客様に対して、誠実に、愛情をもって接しているだけ。もちろん、佐々木さん自身が魅力的な人ということもあると思いますが。

 

佐々木

ありがとうございます。でも私は、金沢箔が好きで、それをお伝えする仕事ができることが嬉しいんです。数年に一回であっても、金沢箔のファンになって、私たちのお店にきてくださるお客様は、本当に大切だと思っています。

 

浅野

私たちのお店は、金沢箔を発信する場であり、ファンづくりの場ですよね。現場の人たちは、売上にも責任を感じてくれていますから、それは経営者としてはありがたいことです。ですが、利益を追いかけるようなお店にはなってほしくない。金沢箔の魅力を伝え、お客様を大切にし、結果としてお店がにぎわうということであってほしい。

 

佐々木

そこは見失ってはいけないですよね。昔は、お店の運営ルールにも、お客様にとってデメリットになるものもありました。そういったものも、変えていっていただきました。時には、上司と議論になることもありましたが。

 

浅野

ややもすると、管理する側の都合でルールが決まってしまうことがある。だから管理職であっても、やっぱり現場を知るべきですよね。長く守られているルールでも、お客様にとってメリットがなければ変えていくべき。それは、現場に立ってみないと感じ取れない。ただ、あの頃から見れば、ずいぶんと改善は進んだと思います。

 

佐々木

社長にも、大きく改善していただきました。決済方法なども、昔は社内の煩雑な申請手続きがありましたが、こういったものもスムーズになりました。

 

 

 

期待に応え続けられる存在でありたい。

 

浅野

佐々木さんに先頭に立っていただいて、お店はとても進化しました。ですが一方で、経営者としての葛藤もあるんです。お店をきれいにして、仕組みをしっかり整えれば、売れるようになっていく。それは、本当にありがたいことなのです。でも、かつてのように、お客様が少なくて、困っている中で工夫したり、接客を鍛えたり、という経験が得られなくなってきています。

 

佐々木

苦労を知っている人は、工夫することが身についていますよね。パートさんなどでも、特に長く勤めていただいている方には、そう感じます。お店に欠かせないな存在として、大きな成果をあげている方もいらっしゃいますから。

 

浅野

私でも、一人で展示会や催事に出かけるときは、いつも「売れない怖さ」と戦っていました。もちろん、商品には自信があるんだけど、行く以上は成果がないと帰れないから。そういう怖さを知っているから、頑張るし工夫もしますよね。でも、いまはそういうことを感じにくくなってきました。お店について言えば、北陸新幹線が開通してからは、本当に変わりました。良い場所にお店があり、良い商品があれば、ある程度の成果は得られます。ただ、今あるものを守ることが、仕事の中心になってはいけない。

 

佐々木

本来は、店舗が増えてきたからこそ、よりしっかりしないといけないですよね。金沢の中で、箔一の存在感が増していけば、期待も大きくなっていきます。商品はもちろん、店づくりやスタッフの挨拶、礼儀など、できていて当然という目で見られています。

 

浅野

会社が求める社員のスキルや姿勢というものはもちろんあります。でも、それは会社が言うから、上司が言うからということではない。あくまで、お客様や周りの人が、箔一に何を求めているかということ。そこがすべての基準です。私の夢としては、「箔一に勤めている」というだけで周囲からも信頼される。そんな存在でありたい。

 

佐々木

いまでも、近隣のお店の方や、お世話になっている大家さんなどとお話しすると、箔一のスタッフの人は、誰と接しても礼儀正しくて気持ちがいい、と言っていただけます。それはとても嬉しいことですし、そうした期待を裏切ってはいけないでよね。

 

浅野

期待される、信頼される、ということはとても大切なことです。一目置かれる存在であれば、話しを聞いてもらえるし、いろんなことを良い意味で受け止めてもらえる。逆に、日頃の行いが悪いと、せっかく良いことを提案しても相手にされない、ということもあります。

 

佐々木

期待に応えていくには、日々、丁寧にやっていくということの積み重ねだと思います。それは、箔一が、大切にしてきたことのひとつです。会長にもずっとご指導いただいてきましたが、おっしゃられることは同じです。気を緩めずに気配り目配りをしっかりしなさい、ということにつきます。

 

浅野

先代の浅野会長の真剣さを、きちんと理解して受け継いでいるのが、佐々木さんですよね。先代は、誰よりも真剣だからこそ厳しさもある。佐々木さんは、それがわかっているから、厳しくてもスタッフから慕われる。私にとっても、佐々木さんはよき理解者です。そういう意味で、経営トップを二代にわたって支えてくれているのは、本当にありがたいことです。

 

佐々木

会長は、志の高い人です。でも、本当は明るくて楽しい性格の方ですから、いつも笑顔でいたかったと思うんです。ただ、良いものを作りたい、箔一のブランドを守りたいという気持ちが強いから、厳しく指導されることもありました。会長にとっては、この会社は人生そのものという感じがします。それこそ、命がけで会社を作ってこられた。だからこそ、真剣だし、厳しかったのだと思います。

 

浅野

会長も、スタッフを注意したあとに、後悔されることもあったようです。いま、自分が経営トップになってみると、その気持ちがよくわかります。経営者としては、間違っていることは、違うと言わなければいけない。良い顔だけして社員に好かれていても、経営として成り立たなければ意味がない。佐々木さんは、そういうところまで理解してくれているのが、ありがたいですよね。

 

佐々木

ご指摘いただいたことも、改善をすれば、会長は認めてくださいます。また、ディスプレイなども、良かった時には本当にうれしそうな顔をして褒めていただけます。そういうことが、励みになってもいました。

 

浅野

佐々木さんが、そうして受け継いできたものが、とても大事だと思います。私が会長から経営のバトンを引き継いでから、変えたところもたくさんあります。でも、想いは変わらないんです。いまはITの時代になって、新しい技術をうまく使えたり、要領の良い人が評価される風潮もあります。私はそうではないと思う。本当に評価される人は変わりません。礼儀正しく正直で、一生懸命な人は信頼されるし、尊敬される。そういう人を育ていってほしい。

 

 

 

 

金沢箔の歴史を次の世代に受け継いでいきたい。

 

佐々木

入社させていただいて20年が経ちましたが、箔一もずいぶんと大きくなりました。優秀な人たちも、たくさん入ってきました。ただ、大事なことについては、よく相談を受けています。私の意見もとても大事にしていただいていると思っています。

 

浅野

それは、良いことですよね。どれだけ優秀だったとしても、これまで苦労をしてきた人たちに敬意を払えない人は、評価できません。佐々木さんには、歴史を語って、次のリーダーを育てる人になってほしい。

 

佐々木

箔一の歴史も大切ですし、私たちは、金沢箔の歴史にも責任があります。私が箔一に入社したのは、金沢箔の美しさに感動したからなんです。それは、数百年もかけて、たくさんの人たちが受け継いでくれたもの。ですから、それを次の世代に受け継いでいくことが私たちの責任です。私は、教えられた説明をするのが、本当の接客ではないと思っています。話す内容などは、一人ひとり違っていてもよいんです。箔を打つところや、工芸品を作ることころ、そうした手間を一つひとつ見て、知って、そこで自分が感動したこと、素晴らしいと思ったことを素直に語れるようになったら良いし、それが箔一の接客だと思っています。

 

浅野

それはもう、マニュアルでは語れないですね。マニュアルがないことを学ぶには、教えてもらう人の姿勢も大事です。佐々木さんのような、素晴らしいお手本がいるわけですから、若いスタッフの方も、どんどん話しかけて、吸収していってほしいと願っています。本日は、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

 

佐々木

ありがとうございました。こちらこそよろしくお願いします。

箔一を支える女性課長が、勤続25年を迎えられました。

昨年、勤続25年を迎えられた桝田課長。いつもよく気が付いて、みんなを的確にフォローしてくれる箔一に欠かせない存在です。私たちのものづくりを手伝ってくれる外部の職人さんからの信頼も厚く、「桝田さんが言うなら」と力を貸してくれる方々も少なくありません。また、三人の子どもを育てながらキャリアを積んでこられた、わが社の女性管理職のロールモデルでもあります。勤続25年を記念して、感謝の気持ちを伝えるとともに、お話をお伺いしました。対談記事にまとめましたので、ぜひご一読ください。

 

 

入社したばかりに、大変だったことが今のベースになっています。

 

浅野

桝田課長が箔一に入社されてから25年が経ちました。本当にいろいろ助けていただいてきました。ありがとうございます。

 

桝田

入社する時に、浅野社長(当時室長)に面接をしていただいたことをよく覚えています。ずいぶん、若い方だなと思っていました。

 

浅野

桝田さんは、私が採用を見るようになって、初めて面接をした人なんです。当時は、私自身も入社したばかり。でも初めてお会いしたときから、印象は変わらないですね。おおらかな性格だけれども、言うべきことははっきり言う芯の強さがある。こういう人に、仲間になってほしいと思いました。

 

桝田

ありがとうございます。そうして入社させていただいて、最初は経理の補助をしていました。ですが、半年くらいしてその経理の方が辞められてしまった。

 

浅野

そうですよね。まだ入社して間もないのに、連日かなり遅くまで残業されていたのを覚えています。あのときに、経理のやり方などをものすごく改善していただいた。

 

桝田

私は、実務は得意ではなかったんです。でも、状況を把握してみたら、問題もたくさん見つかってしまって。日中には、発注などの業務もありましたから、業務改善は残業して取り組むという感じでしたね。

 

浅野

当時、私は箔づくりの工房にいて、桝田さんがいつも夜遅くまで残っているのを見ていました。申し訳ないな、という想いはいつもありましたが、私自身も入社したばかりで、助けてあげるだけの余裕がなかった。

 

桝田

それでも、振り返ると良い経験だったと思っています。おかげで、事務の仕事を通して、会社全体の仕事の流れもかなりわかるようになりましたから。

 

浅野

そう考えられるのが、桝田さんの強さですよね。いつも周りがよく見えているし、自分の仕事の意味も分かっているから、やるべきことに集中できている。

 

桝田

あの時期、苦労しながら覚えたことが、ベースにもなっているんです。仕入れ業務もありましたが、それもただ発注書をFAXするだけの単純な仕事ではない、ということも学びました。

 

2005年の忘年会の様子より。桝田課長は、この時入社10年の永年勤続表彰を受けられました。

 

 

外部の職人さんたちにも、支えられてきました。

 

浅野

箔一の取引先には、漆職人さんなど、一筋縄ではいかない人も多いですよね。みな一国一城の主で、職人気質。桝田さんは、こういう人たちとも、とても良い関係を作ってこられた。

 

桝田

あまりにも何も知らなかったのが、逆に良かったのだと思います。基本的な事柄を質問して、「こんなことも知らんのか」と叱られることもありました。でも、職人さんたちは、厳しいながらもいろいろ教えてくれました。

 

浅野

職人さんたちと付き合うには、人間力が必要です。こっちが買う側だからと言って、上からの物言いをすれば、心は離れていく。かといって、会社のためには、言うべきことはきちんと言わなければいけない。

 

桝田

ですから、みなさん話をするととても長くなります。とにかく話を聞くことから始めないといけないですから。

 

浅野

プライドをもって仕事をしている人たちだから、その思いには、真摯に耳を傾けるべきですよね。正論をぶつけて相手を論破したとしても、職人さんたちは動かないでしょう。互いに尊重しあって、お付き合いをしなければいけない。

 

桝田

会社の姿勢もよかったと思うんです。あの当時、伝統産業の世界では、支払いを渋る得意先が多かったんです。請求書を送っても、勝手に端数を切って振りこんできたり、何かと理由をつけて1割くらい少ない金額しか払わなかったり。そんなのが当たり前でした。でも、浅野会長(当時社長)だけは違っていました。創業のころから、絶対にそういうことはしなかった。外部の職人さんをすごく大事にされていたんです。それが、信頼につながっていました。

 

浅野

会長は、何もないところから会社を立ち上げましたから。ご本人の性格も真っ直ぐであったのもありますが、まずは信頼を得なければいけない、ということだったと思うんです。ただ、いまでもこの姿勢を続けているのは、私たちには職人さんたちを守っていく責任もあるからです。それに、日頃からきちんとしていなければ、こちらのお願いも聞いてもらえない。

 

桝田

職人さんたちは、厳しい反面、人との付き合いをとても大事にされています。私も、妊娠していた時期などは、顔を出せば子供のことも気にかけてくれたり、「産んでも辞めないでね。ずっとうちにも来てね」と言われたりもしました。こうして、長く続けて来られたのも、職人さんたちとの良い関係があったからだと思います。

 

 

助けていただきながら、子育てと仕事を続けてきました。

 

浅野

おなかが大きいときも、仕入れ先に顔を出されていたんですね。桝田さんは、仕事をしながらも、三人のお子さんを育てられてきました。

 

桝田

私自身はばくぜんと、結婚したり子供ができたりしたら辞めるんだろうと思っていたのです。

 

浅野

子育てをしながら、仕事も両立されてきたというのは、とても大変なことですよね。でも、桝田さんのような方がいたから、箔一でも女性の働き方が変わってきた。これから出産や子育てを経験する人たちにとっても、良いお手本になるのではないかと思います。

 

桝田

あの時は、全く先が見えませんでした。最初の出産の時には、1年も休んで仕事に戻ってこられるのか、1歳の子供を育てながら仕事なんかできるのかと、本当に悩んでいたんです。

 

浅野

その頃は、もう産休・育休という制度はありましたよね。箔一は創業者が女性ですから、中小企業ながら、そうした取り組みはかなり早かったと思います。

 

桝田

そうですね、産休・育休の制度はきちんと整っていました。でも、世間でも出始めのころで実際に使った人はまだいなかったんです。ですから、この会社で、初めて産休・育休をとったのが私でした。悩んでいたときに、社長から、「産休・育休をとればいいよ」と、それがあたりまえのように言われたことを覚えています。

 

浅野

そうでしたか。会社としてはきちんと制度を整えていましたが、社会全体としては、まだそこまで意識が浸透していなかった。ですから、休むのにも少し勇気が必要だったころかもしれませんね。

 

桝田

やはり不安はありました。でも、社長から、深刻にならずに、育休をとることを当然のように言っていただいたことに、勇気づけられました。「1年休んでみて、続けられそうなら帰ってきてくれればいい」とも言っていただいて、それなら、と思い切って休めたんです。

 

浅野

それで、戻ってきてくれた。

 

桝田

育休が終わっても、1歳の子供を育てるのは大変でした。まだ、お手本になる人もいなかったから、子供が熱を出したりするたびに、休んでもいいのか悩んでいました。そんな時期にも、浅野社長には、なるべく休みやすいようにと部署も配慮していただくなど、いろいろサポートしていただきました。本当に感謝しています。

 

浅野

私の立場から言わせていただくと、桝田さんのご家族にこそ感謝しています。特に旦那さんに理解していただいたのが、ありがたいですよね。今では子育てしながら働くのは当たり前のことかもしれませんが、あの頃はそうではなかったから。

 

桝田

最近はもう、産休・育休の制度も定着してきました。それでも、妊娠・出産をした人が安心して休みをとれるようにしていくことは、大事だと思っています。

 

浅野

会社の雰囲気づくりも大事ですよね。産休・育休は権利でもありますが、それが最初に来ると良くない。また、周りの人もフォローすることを迷惑や負担ととらえてほしくない。みな仲間ですから。仲間に子供が生まれることを一緒に喜べるような関係性であってほしい。特に女性同士には、分かりあえる部分も多いですから。お互い様だと思って、気兼ねなく助けたり助けられたりしていってほしいと願っています。

 

桝田

みんなが忙しい中で休みをいただくことに、「申し訳ない」と感じるのはしょうがないですよね。でも小さな子は、熱を出しやすいし、いったん良くなってもぶり返すことも多い。だから、思い切って休む、ということが大事だと思っています。私自身が、無理して出社して後悔したこともありますから。みんなには同じような思いをしてほしくない。

 

浅野

感謝の気持ちさえあれば、それでいいですよね。子供のために休むことで、引け目を感じる必要は全くない。また周りはフォローするのと同時に、その人の居場所をきちんと守っておくことも大事です。休んでも、席はなくならないよ、と。

 

桝田

居場所を守ってあげることは、安心して休んでもらうためにも、大事なことです。誰もが不安を感じると思うんです。だから、つい無理して出社しようとする。でも、そこをちゃんとしておけば、こちらから、今は休みなさいと言うこともできます。

 

浅野

そういった、マニュアルでない、親身なサポートが生産現場の良さですよね。だから何十年と勤めてくれている人も多いのでしょう。桝田さんのような存在が、生産現場のチームワークの良さを支えています。

 

 

できるだけ、長く勤めてもらえる環境をつくりたい。

 

桝田

私は、第五工場ができて、ここに移ってきたとき、本当にうれしかったんです。こんなきれいなところで仕事ができるんだ、と。でも、いまはこれを守っていかなければいけないという責任感のほうが強くなっています。

 

浅野

桝田さんが、そう言ってくれるのがうれしいですよね。環境改善をすすめるのは経営者の責任だから、それを恩に着せるつもりはないんです。でも、私たちの想いが現場の人に伝わっていないと、大きな成果には結びつかない。

 

桝田

私が入社してから、環境は見違えるほど改善されました。社長は方針を示し、環境を整えてくれます。でも、実際にそれを使って成果に結びつけていくのは私たちの責任です。

 

浅野

そういう想いを伝えていってくれるのが、本当のマネジメントですよね。数字を見て管理するだけなら、むしろ簡単なこと。人を動かそうと思ったら、意識や気持ちというものがとても大事です。心を動かさなければ、人は動かないですから。

 

桝田

私は、みんなにできるだけ長く勤めてほしいと願っています。職場の改善も、そのためのものであってほしい。みなさん事情がありますから、辞める人が出るのはしょうがないのかもしれません。でも、そのたびに、もっと何かしてあげられなかったのか、と考えてしまう。

 

浅野

家庭と両立しながら、25年続けて来られた桝田さんが言うと、説得力がありますよね。私が第五工場を建てたのも、女性が長く働いてくれるようにという想いがありました。でも男性である以上、わからないこともある。だから、桝田さんがそうやってフォローしてくれるのは、とても大きな力になっています。

 

桝田

お互いに関心を持つことが大事なのだと思います。生産現場では、いま、そういう雰囲気にはなってきていますよね。自分の仕事じゃなくても「あれどうなってるの?」とか、いつも声を掛けあっています。わかっていても、言われないとできないことがありますから。

 

 

今でも、まだ学び成長できることが魅力。

 

浅野

私は、桝田さんとは、ほとんど同期入社です。あの頃の、何もかも不足していた時代から、一緒にいろんなものを実現してきたという思いもあります。

 

桝田

私は恵まれていたと思うんです。仕入れ先の人にも、叱られながら、いろんなことを教えてもらいました。ただ、今は、それを上司や先輩として教えていかないといけない。同じように伝わるのか不安ですよね。厳しい職人さんから言われる言葉と、先輩から言われることでは少し違うようにも思います。

 

浅野

会社のなかだと、教えるのも、教えられるのも当然という意識になってしまう。桝田さんのように、何もわからない中で現場に飛び込んで、苦労しながら覚えてきたものとは、身につくものが違うという気もします。

 

桝田

ただ、昔の苦労とか、しんどかったとか、あまり話したくないという気持ちもあるんです。でも、今のこの状態があたりまえではない、ということも伝えていかなければならないですよね。

 

浅野

あたりまえじゃない、という感覚は、とても大事ですよね。恵まれた環境は、桝田さんのように頑張った人たちが勝ち取ってきたものだから。

 

桝田

私が入社して1年目に箔巧館ができて、その時もすごくうれしかったんです。それからまた、店舗も増え、生産現場もどんどんきれいになっていきました。そうやって、会社はどんどん変わっていく。でも、中身を変えていくのは私たちの責任です。

 

浅野

桝田さんは、みんなのことに、良く気が付く人。厳しくもあり、優しくもあり、ある意味母親的な役割も果たしていただいている。生産現場は、いつもきれいに整頓されているし、あいさつにしても、すごく気持ちがいいですよね。それは、桝田さんの存在が大きいと思います。

 

桝田

私自身が、会社にすごく助けていただきました。箔一の良さは、いつも新しいことにチャレンジできることだと思います。これだけ長く勤めても、まだ日々学ぶことがあるんです。協力いただく職人さんも、むかしは県内の産地が多かったですが、今では全国に広がっています。そうすると、そこで新しい出会いや発見がある。25年経ってもまだ成長できるし刺激があるというのが、この会社で働いてよかったと思えるところです。

 

浅野

いまでも、そうやって新鮮な気持ちを持ち続けて、日々改善に取り組んでいいただけることが、生産現場の活力にもなっていると思います。また、これからもよろしくお願いします。

 

桝田

こちらこそ、よろしくお願いします。

 

当社の伝統工芸士が、勤続40年を迎えました。

当社に勤めていただいている、伝統工芸士・箔打職人の山根さんが、昨年で勤続40年となりました。これだけ長い期間、箔一に貢献していただいてきたことには、本当に感謝してもしきれません。この長いキャリアのある方に、箔一の歴史や「箔一らしさ」について語り継いでいただきたいと思い、お話を聞かせていただきました。対談記事にまとめましたので、ぜひご一読ください。

 

 

左が伝統工芸士の山根さんです。

 

入社初日のことは、今でも覚えています。

 

浅野

山根さんが箔一に入社して、今年で40年を迎えられました。まずは、長い間、本当にありがとうございました。

 

山根

こちらこそありがとうございます。入社した日のことは、いまでも鮮明に覚えています。当時は、社員もほとんどいない時期で、浅野会長(当時社長)のご自宅が会社でした。お祝いだということで、お寿司をとってもらって、みんなで食べました。社長にもお会いしましたが、そのころは、まだ小学生でしたね。

 

浅野

いまから40年前というと、私は12歳ですか。でも長いようで、過ぎてしまえばあっという間だったという気もします。

 

1982年の忘年会の様子より。後列左より3人目が山根さん、その向かって左にいるのが子供のころの私と妹です。

 

山根

あの頃は、何もかもが不足していました。だから、自分たちで工夫してやる必要がありました。役割分担というよりも、経営者であっても、パートさんであっても、分け隔てなくみんなが力を合わせてやっていました。

 

浅野

当時、私はまだ子供でしたが、そういう姿を見ていたから、自分も役に立ちたいという気持ちがありました。とはいえ、まだ仕事はできませんから、食事を自分で作ったり、小さい妹を不安にさせないように面倒をみたり、そういうことが役割だと思っていました。

 

1985年ごろの本社の様子。

 

山根

浅野会長も、催事などで出張したら何ケ月も帰ってこられないことが、よくありましたからね。寂しかったと思います。それでもあの頃は、子供たちも含めて、一人ひとりが、自分の力で何とかしようとしていました。ボーっとなんかしていられなかった。だからこそ、仕事もすぐ覚えましたね。覚えざるを得ませんでしたから。それに比べたら、今は、ちょっと与えられすぎている気もします。

 

浅野

当時はスタッフも少なかったですから、製造も営業もなく、みなが一つでしたよね。でも会社が大きくなると組織化されて部署ができ、職域というものも生まれてきます。

 

山根

40年前と比べれば、労働環境は見違えるほどよくなっています。それは、本当に喜ぶべきことなんです。でも、良いときのことしか知らない人に、昔の考え方を伝えるのが、難しくなっていると感じることもあります。

 

浅野

昔のほうが良かった、とは言いたくないですよね。ノスタルジーに浸っているということではない。今の状況は、進化してきた結果だし、これからも進化していくわけだから。部署が分かれて専門性が高まれば、より深い仕事ができるようになるということもあります。でも、何かが違うという感覚も捨てきれない。

 

山根

社長が危惧されていることは、私もわかります。箔一は、自分たちの手で作ったものを、自分たちの手でお客様に届けられるというのが良いところ。そこが仕事のやりがいを感じるところでしょう。仕事が別々になってしまうと、せっかくの良いところが見えにくくなってしまいます。

 

浅野

販売する人にとって、いつでも職人と話ができる、というのはすごい武器ですよね。自分の専門分野があるからといっても、自分の部署のことだけを知っていれば良いわけではない。すべてつながってひとつの箔一になっているのですから。

 

山根

だから私たちは、当社のスタッフは、時間があれば工場を見に来てほしいと思っています。いつでも歓迎します、と言っていますが、実際にはなかなか来てもらえない。もっともっと製造現場を見て、箔のことや、作っている人のことに関心を持ってもらえたらと願っています。

 

 

 

コロナの危機を経て、チームがより強くなりました。

 

浅野

いま製造現場は、チームワークがすごく良くなってきています。メンバーにも10年、20年と長く勤めている人が多い。それは、山根さんのような人が、歴史や経験を伝えてきてくれたからではないかと思います。

 

山根

みんなが責任感を持ってやってくれていることが大きいと思います。私たちがうるさく言ってきたことを、いまは中堅の人たちが若い人に言っている。それを聞いた若い人たちも、同じように後輩たちに伝えています。そういう姿を見ると、うれしくなります。

 

浅野

2020年は、新型コロナという問題があって本当に苦しかったと思います。でも、そういうときにも、やるべきことをきちっと愚直にやるという姿勢を貫いていたことが、いまの製造現場の強さにつながっています。山根さんのようなベテランがいてくれたから、恐れずに困難に立ち向かって行けたのだと思います。

 

山根

本当に大変な時期でしたが、私が何も言わなくても、自然とみなが集まる機会が増えました。どうすればいいか、話し合って方針を決め、それを一人ひとりが責任をもってやり抜く。そういう形ができあがりつつあります。話をすれば、みな熱い思いもあるから、厳しい意見もでます。でも、あくまで前向きに話をしています。そうした姿を見ていると、このメンバーなら何があっても大丈夫、乗り越えていける、と思えるようになりました。

 

浅野

現場の皆さんは、とても仲が良いが、お互いに対して厳しいところもありますよね。信頼しているからこそ、忖度なしで意見を出し合えるという強さがある。

 

山根

私は、ここは長屋のようであってほしいと思っているんです。マンションではなくて、昔ながらの長屋でいい。

 

浅野

面白い表現ですね。確かにマンションというのは、隣の人の顔もわからない。むしろ、関わりたくないという人が多いですよね。でも、長屋は干渉しあう。だから万が一、火事とか泥棒とか、危機が訪れても、お互いに助け合って乗り越えていける。

 

山根

だから、他人の仕事であっても、遠慮せずに、困っていればどんどん首を突っ込んでいってほしいんです。意見を言って、助けてあげて、うまくいったら一緒になって喜ぶ。それが、箔一らしさでもあると思うんです。完璧な人間なんかいませんから。私も助けてほしいし、力になれるなら助けてあげたい。

 

 

 

40歳になる頃に、これを生涯の仕事と定められました。

 

浅野

山根さんは、箔一に入社したばかりの頃には、こういう日がくるということは、予想していましたか?

 

山根

まさか。本社がビルになるなんて思っていませんでしたし、私自身も何度かやめたいと思ったこともあります。この道でやっていこうと腹をくくったのは、ようやく40歳くらいになってからです。それまでは、うまくいかないことも多くて、悩んでいる時期もありました。

 

浅野

40歳というと、伝統工芸士になったころですよね。あれは、山根さんにとっても大きなプラスになったのではないかと思います。

 

山根

そのころになって、少しだけ自信がついてきました。あるとき、ほかの職人さんの打った箔を見て、自分が「勝った」と思ったことがありました。それまでは、納得いくものはなかなかできかったけど、気づいたら、それなりのものが作れるようになっていた。そんなときに、社長にも勧められて伝統工芸士にもなれました。それが大きかったと思います。

 

浅野

会社のため、ということはもちろんありましたが、山根さんにとって必要なことだと思い背中を押しました。伝統工芸士になると、世界は確実に広がりますよね。腕の良い職人さんとも接点ができます。あのころ、社内では山根さんが一番でしたから、さらに成長するためにはもっと多くの人に出会ったほうが良いと思っていました。

 

山根

有難うございます。あのことで、自分の世界も大きく広がりました。外の職人さんと出会えば刺激にもなります。職人同士は、ライバル心も強いですから。自分の打った箔を、ほかの職人さんに見られることを想像すると、絶対に負けたくない、良いものを作りたいという気持ちも強くなります。

 

浅野

すごく大事なことですよね。技術というのは、教えればある程度できるようになります。でも、それ以上のものを作るときには、気持ちという部分もすごく大事になります。最近は、精神論が通用しない時代ですが、最後は本人の気の持ちようというのは変わらない。

 

山根

そうですね。でも、若い時はわからないかもしれません。私も、ずいぶん前に先輩たちに言われたことが、経験を積んで、ようやく意味が分かるようになったということもあるんです。

 

浅野

それは、実際に頑張ってきた人だけが気づけることだと思います。山根さんが、以前、テレビ局のインタビューで「私たちは給料をもらって、技術を磨かせてもらっている。これはありがたいこと」とおっしゃっていました。そういう謙虚さをもって、努力されてきたからこそでしょう。あの言葉は、私自身すごくうれしかったのを覚えています。

 

山根

かつての職人の世界は、親に教えてもらったり、親方に弟子入りして雑用なんかをこなしながら仕事を覚えていくものでした。私は、会社に育ててもらった、それは、本当にありがたいことだと思っていますよ。

 

浅野

山根さんが、そう言ってくれることで、みんなが前向きに頑張ろうという気持ちになれるのだと思います。マニュアルや人材育成のプログラムも大事ですが、本当に大事なのは、謙虚さや成長したいという気持ちですから。

 

 

 

厳しく教えられてきたことは、今でも守っています。

 

山根

古い話ですが、昔、給料を内職の方に渡すよう言われていたのを、うっかり忘れてしまったことがあるんです。その時に、会長にものすごく怒られました。内職さんたちは、1個あたり数円や数十円の仕事を一生懸命やってこのお給料をもらっているんだ、その大切さがわからないのか、と。

 

浅野

会長は厳しいですから。でも、おっしゃっていることは、いつも正しいですね。会長は、パートさんや内職さんを、とても大事にされていましたから。ただ最近は、怒ってしまうと逆効果になることもあるから気をつけないといけない。言いたいことが全く伝わらず、相手には「怒られた」というネガティブな感情だけが残ってしまう。

 

山根

だけれども、怒られないと、わからないこともありますよ。お金の大切さということも、そうやって会長に教えていただきました。今は、私が若い人たちに同じことを伝えていく順番だと思っています。

 

浅野

会社が小さい時には、人数も少なかったし、豊かなコミュニケーションがある中で教育ができました。でも、大きくなっていくと、システム化をしていかなければならない。ですが、マニュアルで本当の思いが伝えていけるのか、悩ましいところです。

 

山根

私は、そこは心配していません。わかってくれる人も多いと思います。箔一らしさ、というのは喜怒哀楽があることだと思います。一生懸命だからこそ怒ることもありますし、頑張ったからこそ皆で一緒に喜ぶ。自分の仕事だけじゃなくて、人のことにも関心をもって、お互い助け合う。うまくいかないときも、嫌になるときもある。でも、自分の仕事の価値は自分で決められるわけじゃなくて、周りからどう評価されるかということ。やっていることは地味でも、ひたむきに汗をかいて仕事していれば、見ていてくれる人、認めてくれる人も必ずいます。そうやって、仲間と一緒に困難を乗り越えていけば、やがて自分が必要とされているという実感も生まれて、自信にもつながるでしょう。おせっかいでもいいから、他人に干渉する、長屋のような付き合い。それは、会長が自宅で創業した頃から、今でも変わらずにあります。

 

浅野

そういった価値観を、ぜひ、次の世代に伝えていってほしいです。

 

山根

大丈夫です。ちゃんと人は育っていますし、私もまだまだ頑張れると思います。

 

LEXUS様との仕事を通じて。

先般発表されたLEXUSの新型LSに、当社のプラチナ箔が採用されました。これに関連して、LSの開発責任者である武藤康史チーフエンジニア様が当社の工場見学に来られ、意見交換をさせていただきました。

 

武藤さんと私は、偶然同い年だったこともあり、打ち解けた雰囲気のなかで、様々な話ができました。武藤さんはものづくりが本当に好きな方で、質問される内容からも、旺盛な好奇心と情熱を持ってらっしゃることが、よく伝わってきました。私も大変に刺激を受け、伝統を守りながらチャレンジをしていくということが、トヨタさんも私たちも、共通した思いであることを実感しました。

 

このLEXUS様との仕事によって、伝統産業も一つの新しいステージ来ているのではないかとも感じています。私はかねてより、伝統とは守るだけのものではなく、現代社会の中で活用され価値を認められてこそ意味があるものと考え、努力をしてきました。その結果として、トヨタ様のような、日本を代表する企業に採用されたことには、大きな意味があります。

 

日本のものづくりは、世界を視野にいれる時代になっています。しかし欧米から見れば、日本文化も中国文化も似たようなものに見えてしまう。世界で価値を認められるには、日本文化のオリジナルな個性をわかりやすく表現する必要があります。伝統産業、なかでも金沢箔は、その一つの象徴になれる可能性があると思っています。そもそも日本人には、素晴らしい感性があります。手仕事だからこその一つひとつのゆらぎ、その曖昧さを愛でる感性は、美しい自然や四季の移ろいのなかで生きる日本人が育んできた、豊かな文化です。ですから、日本から世界に出て戦っていこうという企業様には、金沢箔のような伝統工芸品を、もっと活用してもらえたらと思っています。

 

日本の社会も変わりつつあります。教育においても、みんな同じが良いという時代から、個性を伸ばすという考え方になってきています。一人ひとりが個性的なのに、身の回りにあるものが画一的では、面白くないですよね。今回の仕事では、トヨタ車という世界で最もブレのない精密な工業製品に、金沢箔の曖昧さや個性を残したまま搭載することができました。この厳密さと曖昧さが一つになったことは、日本のものづくりに新しい可能性を開いたともいえると思っています。

 

 

 

LEXUS様との取り組みについて

LEXUSの新型LSの美しい映像が公開されました。

当社の職人や箔づくりの様子などが、印象的にまとめられています。ぜひ、一度、ご覧いただければと思います。

https://youtu.be/lE97GuHVbFc

 

今回はLEXUSの新型LSのインテリアを、プラチナ箔で彩るというプロジェクトでした。実現するまでに、およそ7~8年がかかっています。

大変に難しい仕事で、何度も暗礁に乗り上げました。スタート時のスタッフもほとんど入れ替わるなかで、あらゆる困難を乗り越え、完成に至ったことは感慨深いものがあります。これはトヨタ自動車様のものづくりへのこだわりや探求心、粘り強さ、またそれに応えてきた技術者の努力のたまものと言えます。

 

 

自動車のような高度な工業製品には、精密に均一化された品質が求められます。中でもトヨタ自動車の品質基準は世界一厳しいともされ、トヨタの仕事を受けられたのなら、ほかのどの仕事でもできるといわれているほど、ハードルの高いものです。

 

一方、私たちのような工芸品には曖昧さがあります。手作りだからこそ生まれるゆらぎ。自然素材を使うからこその、一つひとつの個性。そして、それらの偶然性によって生まれる美しさは、日本人の心に訴える、工芸品の命ともいえるものでしょう。

 

精密な均一性を求められる工業製品と、自然なゆらぎに優雅な美を見出す工芸品。これらは、本来、相容れないものです。ですから、今回のプロジェクトは、まさに水と油を合わせるようなもので、実現したことが奇跡的ともいえます。

 

 

この実現に、大きく貢献した要素が2つあります。

その一つは、トヨタ自動車のデザイナーの伊藤様の存在です。

伊藤さんは、この期間、何度も金沢まで足を運び、私たちの製造現場に来られました。発注側という立場をこえ、箔の素材のこと、技術のこと、作り方から、文化、歴史、職人の思いなど、本気で箔を学ぼうとされてきました。これほどまでに熱心な方は、記憶にないほどです。トヨタの基準に一方的に私たちを合わせさせることはせず、箔を学び、その美しさを取り込むにはどうすればよいか、真剣に考えられていました。彼女の熱心さが、トヨタという大きな会社を動かしたといっても良いでしょう。

 

もう一つは、当社の技術スタッフの努力です。

工芸品には、曖昧な部分が残りますが、自動車という人間の生命を預かるものに搭載する以上は、作り手の責任は重いものになります。その責任を果たすために、現場は、実に細かな資料を作り続けました。例えば、糊を塗るという作業があります。このシンプルな作業も、細かく分解していきます。手を振るスピードや回数、一回で付着する糊の量など、それぞれを精密に計測して数値化し、均一化させていきました。熟練の職人であればほぼ無意識にこなしていける作業ですが、そうした経験や勘に頼った仕事を一つひとつ分析し、数値に置き換えて明確にすることで、トヨタ自動車の厳しい品質基準をクリアできるレベルにまで引き上げたのです。

 

私たちは、これまでも、伝統産業の中で慣習的に行われてきたことを、数値化してノウハウ化してきました。そうした経験も生かされたと思いますが、今回、求められた水準ははるかに高いものでした。その期待に応えるための苦労は、並大抵のものではなかったと思います。ただ現場は、この経験が大きな成長のきっかけになったと、前向きにとらえていました。頼もしい限りです。

 

 

LEXUSは、世界戦略のブランドです。

なかでもLSはフラッグシップモデルといえるものです。

つまり、これは単なる製品ではなく、日本のものづくりの実力を世界に示すことができる作品だといえます。こうしたものに、日本の工芸品が使われたことは、大変に喜ばしいことです。そして、それを実現するための作り手たちの熱意や努力を見ると、まさに日本のものづくりの力が結集された一台になったと感じています。

 

 

ピンチをチャンスに変えるには。

コロナで大変な時期。

しかしこれを変化の時期として前向きに捉えていく。

 

このピンチをチャンスに変えないといけない。

 

しかしピンチをチャンスに変えるためにはスピードが必要。

そうでなければピンチはピンチのまま終わってしまう。

 

 

箔貼りの名人から、技術の伝承を受けています。

いま、当社の職人が、奈良県橿原市の箔貼り職人のところに、技術の伝承を受けに通っています。

 

 

この方は、ふすまや屏風に金箔を貼っていく名人です。その技術はすさまじく、日本でも唯一無二のものですが、残念ながら後継者がいません。いま70歳近いお年となられました。もし引退されてしまったら、この貴重な技術は失われ、もう二度と復活させることは叶わないでしょう。ですから、これを絶やさないために、教えていただいているのです。

 

実は、この方とは、個人的にも長いお付き合いがあります。20年ほど前、私自身が営業で駆け回っていたころから、箔一の箔を使っていただいている大切なお客様なのです。奥さまにも、本当に良くしていただいてきました。ここ10年ほどはご挨拶にも行けていませんでしたので、今回、こういったご縁をいただいたこともあり、久しぶりに工房を訪ねさせていただきました。

 

 

改めて、彼の技術を見せていただくと、子供のころから箔の業界に親しんできた私でも、発見の連続でした。台紙を湿らせるやり方、その紙の種類、乾かしておく時間、乾かし方、また道具の手入れの仕方など、細部にわたって洗練されています。彼が半世紀近くにわたって日々試行錯誤し、工夫してきたことの積み重ねが、一つの完成された技術となっているのです。その所作は、美しいとすら感じさせます。その一つひとつが、まさに職人の奥義のようなものです。インターネットでどれだけ検索しても決して出てこない、ものすごく貴重な情報なのです。

 

 

今回の訪問で、うれしく思ったことは、当社の職人が実に良い質問をしていたことです。我々から見れば素晴らしい技術も、名人にとっては当たり前ということも少なくありません。中には、すでに無意識でこなしている作業もあります。黙っていたら、何も得られずに終わってしまいますから、当社の職人は、かなり細かい質問票を事前に用意して、必死に技術を得ようと食らいつくように話しかけていました。学校などであれば、受け身の姿勢で教えてもらうこともできるのでしょうが、ハイレベルの職人の世界では通用しません。自らその奥義をとりに行くという、真剣勝負がそこにありました。

 

いま、私たちには、大変に便利な最先端の装置があり、それを扱うわかりやすいマニュアルがあります。社員の教育プログラムも整っています。しかし一方、彼のような名人は、誰でも手に入れられる素材を使っていながら、自ら考え工夫を積み重ねて、誰にもまねできない素晴しい仕事をしています。こうしたものはマニュアルにはできません。だから、それを習う側は、自ら学びに行く姿勢を持たねばなりません。こうした姿を見て、教育や技術ということについても、いろいろと考えさせられました。

 

 

名人のお話は、多岐にわたりました。

思い出話を楽しく語っていただいていたかと思うと、ものすごく大事な技術の話になったりします。必死にメモを取る当社の職人は大変ですが、私は一流の職人の頭の中をのぞくことができ、本当に楽しい時間を過ごさせていただきました。当初は挨拶をして金沢に帰るつもりでしたが、訪れたのが週末だったこともあって、延長して2日間いさせていただきました。

 

ご指導いただき、本当にありがとうございます。

いただいた教えは、必ず、大切に守り育てていきたいと思います。

 

 

”新卒採用 社長面談を実施しました!”



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