エジプトのツタンカーメン王は、1922年に王家の谷で墓が発見されたことをきっかけに、史上最も有名な王(ファラオ)の一人となった。この発見により、黄金のマスクを着けた少年王のミイラに多くの人が魅了され、想像力をかき立てられた。
しかし、実際のところ、私たちはツタンカーメンについて何を知っているのだろう? その治世に関する詳細は長い時間の中でほとんど失われてしまったが、歴史家たちはファラオの遺産からその生涯を浮かび上がらせようと努力している。これまでにわかっていること、そして、まだ残されている最大の疑問を紹介しよう。(参考記事:「当局発表:ツタンカーメンの隠し部屋はなかった」)
8歳か9歳で王位を継承
ツタンカーメンはエジプト第18王朝(紀元前1550〜1295年頃)に生まれ、ツタンカーテンという別の名前で人生を歩み始めた。
ツタンカーメンが王位に就くまでの数年間、エジプトは大混乱のさなかにあった。ツタンカーメンの父とされるアメンホテプ4世は、自身の文化の神々に背を向け、太陽神アテンを崇拝するようになった。アメンホテプ4世は新しい神に敬意を表し、自身の名前をアクエンアテンに変え、息子は「アテンの生き写し」を意味するツタンカーテン(トゥトアンクアテン)と名付けた。(参考記事:「ツタンカーメンの両親は誰?」)
しかし、紀元前1336年ごろ、アクエンアテン王が即位約17年で死去し、8歳か9歳のツタンカーテンが王位を継承した。少年王は王国の伝統に立ち返り、多くの神を復活させるとともに、新しい神殿を建造した。
また、大気の神「アメンの生き写し」を意味するツタンカーメン(トゥトアンクアメン)に改名した。さらに、古代の太陽神ラーにちなんで、ネブケペルウラーという即位名を名乗った。そして、アクエンアテンと王妃ネフェルティティの娘であるアンケセナーメンと結婚した。二人の間に子どもはいなかったと考えられているが、ツタンカーメンの墓から発見された胎児のミイラ2体は、死産だった彼らの娘である可能性が高い。
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ツタンカーメン王墓発見から100年となる2022年、エジプト考古学者の河江肖剰氏に監修と執筆を依頼。ナショジオがこれまで伝えてきた若きファラオに関する記事を集めた。この1冊で、世界一有名なファラオ、ツタンカーメンの謎めいた素顔に近づける。 〔全国学校図書館協議会選定図書〕
定価:1,650円(税込)