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目抜き通りに店舗兼工房「ゴールド・ノット」
きらびやかな金箔の世界にどっぷりつかりたいと、金沢を訪れた。北陸新幹線「かがやき」を降りると、
「16世紀のヨーロッパで生まれたとされるタティングレースに、特許を取得した独自の技法で金箔を何層も重ねて貼っています。すべて手づくりです」。加茂谷さんが説明する。店内にはほかに、木和田さんと2人のスタッフがいて、絹糸のレースに金箔を貼る作業などが行われていた。
制作工程はまず、石川県小松産の絹糸を使い、手編みで木和田さんデザインのレースをつくる。そこに、かすかな風でも飛んでしまう1万分の1ミリという薄さの金沢箔を貼り重ねていく。特許取得済みのこの技法で、編み目の細かいところまで金箔を定着させる。その後、余分な金箔をブラシで落とし、ネックレスやイヤリングなどのアクセサリーに組み立てていく。
始まりは趣味の編み物、金属アレルギーでも身に着けられる
「伝統工芸を日常に身につける」を掲げるゴールド・ノットは、金と結び目(ノット)を表したブランド名で、金箔+絹糸と、日本+欧州が特長だ。始まりは、「子どもの頃から編み物が趣味でした」という木和田さんが、様々な編み物を通じて欧州に伝わるタティングレースに出合ったことにある。「糸の結び目で多様な模様を表現できる繊細で洗練されたレースなんです」と木和田さん。「これなら金属アレルギーの私でも身につけられるアクセサリーを作れるのではないかと思いました」
地元の洋食器メーカーのデザイナー出身の木和田さんは、自分らしい商品を作りたいと思いを巡らせていた。本やインターネットでタティングレースを勉強し、指導者にも習い、最初は糸だけで作ってみた。だが華やかさが足りない。形も崩れやすく、耐久性にも難があった。そこで思いついたのが、伝統の金沢箔を貼ることだった。木和田さんは「私は、金箔だとアレルギーがないんです。輝きと強度も得られるので最適な素材だと思いました」と振り返る。金沢箔の繊細な輝きには細い絹糸が合うと考え、それらで制作することにした。
しかし、極薄の金沢箔を複雑な模様のレースにぴったりと貼り合わせるのは容易ではなかった。すぐにはがれてしまうようでは商品にならない。金箔製品を製造している業者に頼むと、「糸に金箔を貼った経験はない」と言われ、試作品も満足できるレベルではなかった。そこで自分でやろうと、石川県工業試験場に相談。電子顕微鏡で接着の耐久性などを調べてもらいながら、溶剤や技法を探った。1年後の2014年に技法が確立し、販売を開始。特許は、19年に登録された。
木和田さんが自信の笑顔を見せる。「特別な日だけでなく、毎日使ってほしい。汚れてきたら、金箔を貼り直せます。めがねの超音波洗浄機に入れたり、誤って洗濯機で洗ってしまったりしても大丈夫。形が崩れたらアイロンをかければ元に戻ります」
伝統を守る縁付金箔、1万分の1ミリまで延ばす
国内の金箔の99%を生み出す金沢箔とは、一体どのようなものなのか。伝統の「
「ひと通りの仕事を覚えるのに3、4年。そこから一人前になるまでには、5年、10年かかるかな」。松村さんは、そう言って屈託のない笑顔を見せた。自宅玄関からつながる部屋に入ると、そこが仕事場になっていて、松村さんのほか、奥さんや後継者の息子さんら3人が各自の仕事を進めていた。部屋のかもいの上には、22年に授与された黄綬褒章の額が飾ってある。
手間と時間のかかる縁付金箔に対して、工程を簡略化した「
松村さんは「金箔づくりは、紙づくり」と言った。金を直接
箔打紙づくりは縁付の要であり、職人の情熱とこだわりをかけた根気のいる作業だ。前段階として、紙職人が
職人減、価格高騰、廃寺…危機に直面する伝統技術
そんな伝統をかたくなに守る縁付職人は現在、20人もいない。その理由は、工場生産のグラシン紙に、箔の職人がカーボンを塗った紙を使い、効率を追求した断切が、縁付より安価というだけではない。全国的に仏壇需要が減ったことが大きい。平成の大不況と1グラム8000円を超えた金価格高騰が追い打ちをかけている。
金沢金箔伝統技術保存会の会長も務める松村さんは「いま危惧しているのは、廃寺だ」と話す。これまで縁付金箔で定期的に修復してきた寺の中には、
活路はどこにあるのか。海外に目を転じれば、欧米にも中東にも金箔はある。だが、そのマーケットに食い込むのは難しそうだ。「金ぴか」を好む海外に対し、日本の金箔は優しい光沢を放つ。厚みのある海外産に対し、極薄の金沢箔は、大きな建造物のエクステリアにも向かない。ただ逆に考えれば、それらが日本の強みでもある。
松村さんは、日本の金箔の魅力を世界に知ってもらうには、まずは技術や歴史をまとめ、次代に残すことだと考え、聞き取り調査もしながら文書をまとめようとしている。「今は機械で打っているが、江戸時代は手打ちだった。それがすごい。技術のベースを知るところから始めたい」
加賀藩からの歴史と誇り伝える工芸館
金沢箔の歴史を伝える金沢市立安江金箔工芸館で、映像を映し出していた展示室のスクリーンが金箔製と聞いて驚いた。金箔の映像を映すスクリーンそのものが金箔でできているのだ。金箔工芸館ならではの豪華な演出ではないか。
工芸館は、金箔職人だった安江孝明氏(1898~1997)が「金箔職人の誇りとその証しを後世に残したい」と、1974年に私財を投じて開館。その後、金沢市が運営するようになり、約10年前に現在の東山地区に移転した。近くにある「ひがし茶屋街」は、美しい出格子と石畳が続く往時の町並みが保存されており、観光スポットだ。かつては金箔職人たちの仕事場もあり、羽振りの良かった頃の職人たちも、お茶屋遊びに興じたという。
「加賀藩祖・前田利家が、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い、九州に行っていた」。川上明孝館長(金沢美術工芸大学名誉教授)が館内を案内しながら、歴史を説明する。「1593年、その陣中から国元に送った書状が残っており、七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つよう命じています」
世界的に金箔の歴史は長い。イタリアの旅行家マルコ・ポーロは、13世紀後半にアジアを巡った旅行記「東方見聞録」で、日本を「黄金の国ジパング」と紹介した。日本では、平安時代の平泉・中尊寺金色堂、室町時代の京都・金閣寺にも金箔は使われた。加賀藩の金箔は、それより少し後の16世紀終わり頃にはつくられていたことになる。
それにしても、なぜ金箔は金沢で栄え、金沢だけに残ったのか。川上館長は「箔打紙を仕立てるために必要となる良質な水、静電気を起こしにくい湿度が年間を通して高いことなど、気候や風土に恵まれていたからでしょう」と話した。そこには、美術工芸の世界を開花させた加賀藩の文化からつらなる伝統がある。
幾度の苦難
工芸館で、金沢箔が時代とともに幾度もの試練を乗り越えてきたことがわかった。最初の技術が綿々と400年にわたって継承されてきたというよりも、途切れては復活を繰り返し、今に至ったという印象を持った。
最初の試練は、江戸幕府が金銀箔を自由に打つことを禁じたことだ。その間、加賀藩は幕府直轄の京都から職人を呼ぶなどして細々と命脈をつないだ。明治になると、金沢箔が興隆し、大正時代には、それまで職人が
だが昭和の戦争で再び苦難が訪れる。ぜいたく品は禁じられ、業界は壊滅状態となった。戦時中は、電動箔打ち機を使って、各地から集められた職人が航空部品のアルミ箔などを製造していた。そして戦後にどん底から復活。朝鮮戦争の特需景気、その後の高度経済成長の波に乗って、バブル崩壊まで順調に生産量を伸ばした。そして、バブル崩壊後から現在は、第三の苦難といえる。
石川県箔商工業協同組合の山賀直久事務局長によると、最も活気があったのは、バブル崩壊直後の1990年で、金銀プラチナ箔などの推計生産額は136億円余り。それが現在は15億円余りと、1割近くにまで落ち込んでいる。
そうした中、明るいニュースは、石川県が2024年度にも、金沢城・二の丸御殿の復元工事に着手することだ。地元では、縁付金箔で飾られるのではないかと期待が高まっている。
世界へ羽ばたく
「北は北海道から南は沖縄まで全国各地を回りました」。ゴールド・ノットの加茂谷さんは、全国の百貨店やイベント会場で催される石川県や金沢の物産展に自社のブースを出し、全国を行脚してきた。その成果もあり、ファンが増え、金沢に旅行で訪れた際に店舗を訪ねてくる客も増えている。取材中もひっきりなしに客が入ってきた。それもあって、店舗兼工房を2022年1月、裏通りから現在の表通りに移した。アクセサリーは2万~3万円台が主力で、買いやすいのも魅力だ。伝統の縁付金箔を使った少し高価な商品もある。
米国にも販路は拡大している。米国の物産展に出向いたところ、現地のバイヤーの目に留まり、2019年にニューヨークの美術館MAD(Museum of Arts and Design)で展示販売が始まった。ロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館、建築家・隈研吾氏の手によって生まれ変わった米西海岸ポートランドの日本庭園にも商品を納入した。
「金沢の伝統を新しい形で世界に広めたい」。加茂谷さんと木和田さんの思いは、さらなる高みへと羽ばたこうとしている。