モンスターゴールドが展示されているつくばの産総研 地質標本館
モンスターゴールドが展示されているつくばの産総研 地質標本館

 以前、このコラムでも書いたのだが、私が勤めている産業技術総合研究所(産総研)は1882年設立の地質調査所をルーツとしている。地質調査所は産総研の一部となって、現在は地質調査総合センターとして調査活動を行っており、研究活動の傍ら、採集した岩石、鉱物、地質標本などを展示した地質標本館(つくば市)を運営している。ここは、研究者だけでなく、一般の方にも見学して頂いている。

 あまり知られていないのだが、実はその標本館に、世界最大級の自然金が展示されている。宮城県気仙沼市北部の鹿折(ししおり)金山で明治37年(1904年)に発見されたものだ。その大きさから「モンスターゴールド」と呼ばれている。標本館で展示されているものは、発見当時のモンスターゴールドの大きさの6分の1程度であるが、それでも日本で産出された自然金の標本としては最大(362グラム)である。

海を渡った巨大な金塊

 なぜ、6分の1しか残っていないのかについては後述するとして、モンスターゴールドは、発見されたその年に、アメリカのセントルイス万国博覧会に出品されている。はるか東洋の国から海を渡ってきた巨大な金色の塊は、定めし来場者の目を奪ったに違いない。ちなみに、この博覧会でモンスターゴールドは、何等賞に相当するかは良くわからないが銅メダルをもらっている。頂いたメダルと賞状は、現在、気仙沼市の市長室に保管されている。

 この年、セントルイスでは万国博覧会の併設イベントとして、アメリカ大陸初のオリンピックが開催されている。万博とオリンピックを併設イベントとして開催するとは、驚く話だ。その一方で、アジアでは、日本とロシアとの間で日露戦争が勃発している。

 日露戦争のとき、日本軍は旅順を巡る攻防で、ロシア軍と激しい戦いを強いられている。司馬遼太郎の『坂の上の雲』によれば、日本軍の敗色濃厚と思われていたそのころ、首相の桂太郎が、鹿折鉱山の話を聞きつけ、高含有率の金鉱が発見されたことを、戦地にいる総司令官大山厳に知らせるよう指示をしている。「夢の金山は、採掘量40億円」と伝えられていたから、これが本当なら日露戦争の軍費は十分にまかなえられる。

 これは朗報だった。早速総参謀長の児玉源太郎が大山に報告した。ところが、これを聞いた大山はクスッと笑い、これは桂さんの政略に違いないと思い、取り合わなかったという。実際に採掘するとなれば多額の資金を要する。当時の政府がこの金山に大金を割けるはずがないと大山は見抜いていたのである。

 鹿折鉱山は、慶長年間に仙台藩主伊達政宗により開山され、一時期荒廃していたのだが、明治20年に再開発が始まった。その後、早稲田大学の徳永重康教授が地元のパートナーと共にこの金山の権利を買い取り、開発、経営にあたっていた。そんな中、明治37年、徳永氏は「計らずも、金の“大直り”を発見した」のである。「大直り」というのは鉱山で成分が多く含まれる塊のことであり、徳永氏自身がこの「大直り」をモンスターと称した。

 そして、前述のセントルイス万博で「ナゲットモンスター」と称して出展している。「ナゲット(Nugget)」とは「金塊」の意味である。余談だが、今日ファストフード店で提供される、あのチキンナゲットとは、さしずめ金塊の形をしたフライドチキンを意味し、日本風に言えば「から揚げ鶏肉大直り」である。モンスターゴールドの写真をよくよく見ると、確かにチキンナゲットに見えてくる。

貴重な標本として寄贈

モンスターゴールドと呼ばれている鹿折金山産の自然金(産総研 地質標本館所蔵)
モンスターゴールドと呼ばれている鹿折金山産の自然金(産総研 地質標本館所蔵)

 それでは何故、モンスターゴールドの一部が産総研の地質標本館に今あるのか? 実は徳永重康氏の子息である徳永重元氏が、地質調査所の研究員であったことのご縁による。重元氏は父が所有していたモンスターゴールドの一部を、1980年地質調査所のつくば移転を機に、新しく完成した地質標本館に寄贈したのである。

 重元氏ご自身もモンスターゴールドにまつわるエピソードや学術的な意味についての論文をいくつも残している。「“空前絶後”とはいわないまでも、再びわが国でこのような金塊が産出するかどうか、誰しも保証はない」、「それだけにこの標本が貴重なものである」と地質学者の立場で記している。地質標本館では登録標本として寄贈時のままの状態で保管・展示している。地質標本館は土曜、日曜も開館しているので、つくばに来られた際は、ぜひお立ち寄り頂きたい。

 奥州の金産出の話は、古く天平時代にまでさかのぼる。聖武天皇(701~756年)が、地震、火災、飢饉、疫病など災難が続くことに心を痛め、奈良東大寺に安全祈願のための大仏建立を思い立たれた話は有名である。大きさもさることながら大仏を全面金で覆い尽くそうというのだから、ひっ迫した財政事情を考えると、とてつもない大プロジェクトだった。当時、仏像や装飾品に金は使われてはいたが、ほぼ100%輸入に依存していたようで、天皇は国内の産金を祈願するほどであった。

 そんな中、陸奥の国で金が産出されたとの報が聖武天皇のところにもたらされる。これは朗報であった。事実大量の金が陸奥の国から都に届けられ、大仏の金塗装に役立ったと言われている。以後、一攫千金を夢見る者達が奥州を目指して行くことになり、一種のゴールドラッシュが起こったようだ。

 このように、天平時代から近年に至るまで、現在の宮城県北部は産金地であった。このあたりは、私の生まれ故郷に近く、いくつもの黄金伝説が残っている。その中で最もよく知られているのが「金売吉次(かねうりきちじ)」伝説である。吉次は、奥州の金を都に運び巨額の富を得たという一大成功者であり、地元のヒーローである。

 宮城県北には吉次ゆかりの地として「金成(かんなり)町」「黄金山神社」「金田八幡神社」などがある。私も小さい頃、川で砂金採りをしたことがある。金だ、金だとはしゃいでいた小さな粒は、実は金色に輝く黄鉄鉱(パイライト)だった。中にはきれいな立方体をした結晶を見つけ、あたかも金の粒でも見つけたかのように喜び、大人に鑑定してもらうこともあった。勿論、黄鉄鉱だった。吉次ゆかりの一つ黄金山神社近くの一帯は国史跡に指定されており、そこでは今も砂金採り体験ができるらしい

 天平以降、歴史的に宮城県北部の金山が脚光を浴びたのは、藤原清衡公が中尊寺金色堂を建立した藤原時代である。そして明治の鹿折金山のモンスターゴールド発見へとつながる。宮城県内には、鹿折金山の他、大谷(おおや)金山などもあり、そのいくつかは戦後まで採掘されていたが、今日ではすべて閉山されている。

 セントルイス万博に出展されたモンスターゴールドの標本は、産総研の研究員の話によれば、金含有率が83%(鉱石2.25キログラム中に1.875キログラムの金)と極めて高く、世界的にも珍しいものであった。ちなみに世界最大のナゲット・ゴールドは、1869年にオーストラリアのビクトリア州で地表より数インチの深さから発見されたもので、72.02キログラムの金を含む巨大な塊だったと言われている。発見後に溶かしてインゴットにされてしまったため、その標本は残っていない。

残りの金はどこに行ったのか?

 鹿折金山のモンスターゴールドの最大の謎は、今、産総研にある標本の残り6分の5がどこに行ったかである。徳永重元氏はセントルイスに展示したモンスターゴールドの写真から、地質調査所(現地質調査総合センター)に現存する標本は「正にその一部である」と断定している。結論から言うと、残りの行方は全く分かっていないので推定でしかないのだが、いくつかの仮設を立てることはできる。以下は私の個人的仮説である。

仮説①:セントルイス万博後、当時日銀副総裁だった髙橋是清が、モンスターゴールドをロンドンに持って行ったという推測があり、その後、英国が引き取り、大英博物館のどこかに置いてあるのではないかという説。当時、ロシアと戦争していた日本は財政難にあえいでいたが、各国は日本が敗けると思っていたのでどの国もお金を貸してくれるところはなかった。高橋は各国を訪ね、お金の工面に回っていたのである。しかし、後年、徳永重元氏が大英博物館に問い合わせて調査をしてもらったが、見つからなかったとのことだ。

仮説②:溶かしてインゴットにして売却し、売上金は戦費に当てられたという説。しかし、前述のごとく、大山巌総司令官は、金山をあてにする気はなかったようだし、いくら大きな金塊とはいえ、これで戦費の一部を負担させようとしたとは考えにくい。

仮説③:横領説。誰かが出来心で持ち逃げした。当時で10万円の価値(今なら1億円?)だったというから考えられなくもない。

仮説④:誤って廃棄されたという説。標本は層状になっており壊れやすい。輸送中に壊れてしまったものを、誰かが単なる石ころか石片だと思い捨ててしまった。あるいは半可通の鉱物学者がただの黄鉄鉱と思い捨ててしまった? これもありそうな話だ。

 かつて学生の頃、地質学の実習で、宮城県の女川、雄勝、唐桑方面の三陸海岸を回ったことがある。その時、引率とご指導を頂いたのは鈴木舜一先生(東北大)だった。鈴木先生の実習は1970年に受けたので、もう少し北上していれば、当時はまだ操業していた鹿折鉱山を見ることができたかもしれない。今回、本稿をまとめるに当たりいくつかの資料に目を通した。その中に鈴木先生の「天平の産金地」に関する論文も入っており、先生に再会できたような懐かしい気持ちになった。モンスターゴールドにはいろいろご縁を感じる。余談になるが、あの大山元帥のお孫さんも研究員として地質調査所に在籍していた。徳永重元氏が勤務していた頃と同時期にあたり、偶然とはいえ奇縁である。

 鹿折鉱山は1971年に閉山となり、その後2001年には地元の人たちが中心となって鹿折金山の展示室を設置した。2012年には、東日本大震災復興活動の一環として、気仙沼市に鹿折金山資料館が建設されている。

 先日、気仙沼市長が産総研にご来訪され、モンスターゴールドのご縁もあるので何かコラボレーションを始めませんかとのお話を頂いた。地質、地形を見どころとする「大地の公園」、ジオパークが日本各地で設けられ、産総研もその活動を支援している。そのうち三陸ジオパークは青森県八戸から気仙沼市までのエリアで海岸線300キロメートル、面積6000平方キロメートルを超え、日本最大の規模を誇る。この三陸ジオパークをはじめ、産総研が貢献できる分野は多い。モンスターゴールドのとりもつ縁で未来型のコラボレーションを始めようと、早速に所内で議論を始めたところである。

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