ローマ史 1 ・・・ローマ帝国、カエサルの登場、帝国最盛期
ローマの起源については実のところはっきりしていません。ギリシャのような歴史家ヘロトドスやホメロスによる文献がなく、ギリシャ人の資料によるか、伝説に耳を傾けることしかできません。
伝承によると、トロヤ戦争の落ち武者の子が街を建設したのが始まりだそうです。その王朝の子孫ロムルスとレムスの双子によって、テイベリス河畔に新しく街がつくられ、その実権を握ったロムルスの名をとって前753年にローマと命名されたといいます。
ローマは平民と貴族が切磋琢磨しながら共和政治を発展させ、かつてのアテネと違って優れた外交手段で難局をくぐり抜け、地中海を支配する大帝国を実に6世紀にもわたって存続させました。そしてなんといってもローマはギリシャを征服しながらその文化や思想を学び、西洋の基礎として着実に伝承してきました。ギリシャ神話もローマの古くからの神々と同化させて自国の神話として取り入れてしまいました。また、ローマ的国家理念とローマ法、そして最後には帝国の国教となったキリスト教は世界の遺産といってよいでしょう。
エトルリア文化と、南北交易の要としての機能がローマに発展の契機を与えました。小規模な農村共同体から、王を貴族による選挙で選出する、そして平民の手でその権利を擁護する護民官を選出するという共和制ローマが始まります。
前3世紀はじめにはイタリア半島を統一し、軍事強国として台頭します。そして、軍事力をつけたローマと同盟関係にあったカルタゴとの間に軍事衝突が起こり、第一次ポエニ戦争(前241年)が始まります。
その結果ローマが勝利しローマは巨額の賠償金とシシリー島を、やがてコルシカ島とイタリア半島西岸海域をも支配下に置きます。同時にかつてローマを苦しめたケルト人を支配することにも成功します。前218年、カルタゴの再興を目指す名将ハンニバルの襲撃(第二次ポエニ戦争)に一時苦しめられますが、それを平定し、イベリア半島支配をかえって強固なものにします。
西方を治めたローマはアテネやロードス、ベルガモンの要請に応え、マケドニアのフィリップ五世をキュノスケファライで破ります。これをきっかけに東方進出が始まります。ローマ国内の平民は、それを略奪や蓄財のチャンスとして歓迎し貴族階級はギリシャ文化を崇拝していたので、そのパトロンとなることを名誉と考えたのです。
ローマは次にシリアのアンティオコス三世を破り、さらにマケドニアにとどめを刺し、ギリシャにおいては反抗分子を探索・殺戮し、全地中海支配を確実なものにします。
急速に拡大したローマはさらに東方に属州を増やしながらも、国内では貴族のもと元老院勢力を抑え民衆派のカエサルによる三頭政治が始まります(前60年)。
カエサルは東西に転戦し、ローマ世界を統一し最高権力を独占し、限りなく‘皇帝‘に近い存在となります。恋人のクレオパトラとともに世界帝国の実現を夢見ますが、反対勢力に暗殺されてしまいます。
彼の後を継いだ養子オクタビアヌスは、カエサルと同様にクレオパトラと手を組むアントニウスを政争の果て戦死させ、前27年に「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を手にし、ローマの初代皇帝となります。ローマは共和政治の原理を持つ帝国となったのです。アウグストゥスは優れた政治力でその基礎を固めますが、病弱で後継ぎがなく、妻と先夫の間に生まれた子、ティベリウスに帝位を譲り他界します。その後、暴君ネロが自殺する(68年)まで、このユリウス=ティベリウス朝が続き、表面上は「ローマの平和」が保たれます。
しかし、宮廷の中には陰謀が渦を巻いていました。ティベリウス帝の後はクラウディウス帝が継ぎますが、妃アグリッピナに毒殺され、アグリッピナはその子ネロによって暗殺されます。この暴君ネロは浪費を重ね、財政は逼迫し、ついにクーデターによって帝位を追われ自害します(68年)。代わりに、反乱を指揮した属州の総監ガルバが帝位につきますが、この反乱をきっかけに権力闘争が内戦に発展しウェスパシアヌス帝によって収拾されるまで続きました。
そしてその息子も執政によって暗殺されるに至って、元老院はそれまでの世襲制を廃し、ネルヴァ帝(在位96年?)を選出し、その後は「五賢帝」と呼ばれる優れた皇帝たちが選挙によって続きローマ帝国は最盛期を迎えました。
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