キリストのビザンチン金貨
こんにちは。本日はクリスマスですね。
歳の瀬が近づいて何かと忙しなく、寒さも厳しい今日この頃ですが、気分だけでも楽しくありたいものです。
さて、本日はクリスマスということで、イエス・キリストが表現されたビザンチン金貨をご紹介します。
ビザンチン帝国は東ローマ帝国とも呼ばれ、その名の通りローマ帝国が東西に分裂した後に発展した東側の帝国です。ビザンティウムに建設された都市コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に首都が置かれたため、「ビザンツ」「ビザンチン」などの通称で呼ばれています。
ビザンチン帝国はキリスト教の帝国であり、首都の位置関係からギリシャ文化の根強い風土でもありました。ローマ、キリスト教、ギリシャ文化、そしてオリエントの影響が交じり合いながら発展し、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまでの千年以上存続しました。
11世紀、日本では平安時代にあたるこの当時、ビザンチンでは写真のお椀のような形状のカップコイン「サイフォス」(=Scyphos, ギリシャ語の「杯」に由来)が多く造られました。従来発行されていたソリダス金貨は純度が高く、帝国領内外で広く流通する国際決済通貨でしたが、ビザンチン帝国の領土縮小や財政悪化、さらにイスラーム帝国が発行したディナール金貨の席巻などから、次第に地位が低下しつつありました。
カップコインの製造は金の純度を低下させる一方で、少しでも通用度を維持する為、薄く延ばしてサイズを大きく見せる目的があったとも云われています。表面積が拡大した分、図像の繊細さや表現の幅も拡大し、皇帝とその一家、キリストや聖母マリアなどの聖人が組み合わせされて表現されるようになったのです。
このコインの場合、皇帝家族の5人と、崇拝の対象であるイエス・キリストが並んで表現されています。このような図像は支配者である皇帝が、神の子イエスからの信任と祝福を得ていることを示す目的があったと考えられます。
表面には皇子三兄弟の立像が打ち出されています。
非常に分かりづらいのですが、三人の周囲にはそれぞれ「KωN」「MX」「ANΔ」と配されており、左からコンスタンティオス、ミカエル7世、アンドロニコスであることを示しています。三人はそれぞれロロスと呼ばれる、刺繍飾りが施された長い上着を羽織り、宝飾の冠を戴いています。中央のミカエル7世はラバルム(キリストを象徴する記章)、二人の兄弟は十字架が付けられた宝珠を持っています。
裏面は両親である皇帝ロマノス4世と皇妃エウドキア、中央にはイエス・キリストが表現されています。左側にはロマノスを示す「PωMAN」、右側にはエウドキアを示す「εVΔΟKIA」、キリストの左右にはギリシャ語でイエス・キリストを示す「IC XC」銘が配されています。
キリストは両側の夫婦の頭に手をかざし、戴冠するような姿で表現されています。これは皇帝と皇妃の地位が、キリスト(=神)によって授けられたことを視覚的に示すものです。聖人によって戴冠される姿の皇帝像は他の時代にも表現され、キリスト教の神聖性と皇帝の権力・権威が密接に結びついていたことが窺えます。
この一枚のコインに表現された皇帝一家は、複雑な権力闘争によって数奇な運命を辿ることになります。
もともとエウドキアは先帝コンスタンティノス10世の皇妃でしたが、コンスタンティノス10世亡きあと、幼い息子ミカエルを皇帝に即位させ、自らも女帝として権力を手中に納めました。しかし当時切迫していた軍事面での脅威に対応することは難しく、すぐにカッパドキア方面の将軍ロマノスと再婚。皇帝ロマノス4世はエウドキアと前夫コンスタンティノスとの間に生まれた三人の息子達を共同統治者にし、即位の正統性を示しました。
ロマノス4世が即位した頃、既にイタリア半島南部のビザンチン領はノルマン人に侵食され、ブルガリアでは反乱が勃発、イスラーム勢力であるセルジューク・トルコが東方から押し迫っていました。軍人皇帝ロマノスは西方や北方の勢力とは和睦し、東方のセルジュークと対決する方針を採ります。
1071年、ロマノスは大軍を率いて出撃し、一気にセルジューク軍を駆逐しようと試みました。しかしマラズギルトで行われた会戦において味方の裏切りに合い、数に劣るセルジューク軍に敗北。ロマノスは捕えられ、セルジュークのスルタンの前に引き立てられました。ローマ皇帝が敵軍の捕虜となったのは、3世紀半ばにウァレリアヌス帝がササン朝に捕えられて以来でした。
捕らわれたロマノスはスルタンに足蹴にされ、コンスタンティノポリスへは身代金の要求がなされました。しかし皇妃エウドキアは敵の捕虜となった夫に見切りをつけ、息子たちを立てて新体制の確立を図りました。しかし再び権力を得たエウドキアもすぐに退位、修道院入りを余儀なくされてしまいます。
結局ロマノスは金貨150万枚で釈放され、コンスタンティノポリスへ帰されましたが、息子ミカエル7世を新皇帝とする臣下たちによって捕らえられ、失明させられた後に追放されてしまいました。(※当時、皇帝は五体満足の者という条件があった)
こうした混乱はビザンチン帝国の衰退を象徴する出来事であり、小アジアの大半はセルジューク・トルコの支配下に入ることとなりました。この後、小アジアのトルコ化が進み、キリスト教徒による失地奪回を目的とした十字軍が結成されることになったのです。
今回は2019年最後の更新となります。
平成から令和へ移り変わった本年も残すところあと僅か。来る2020年が、皆様にとって良い年であることを心より願っております。
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来年も何卒よろしくお願い申し上げます。