Vol.1-なぜ金箔は金沢に根づいたの?
まずは、簡単に金沢の金箔の歴史から。
金沢で金箔が初めてつくられたのがいつ頃かは定かではありませんが、加賀藩初代藩主・前田利家公が金沢に入場城する前から、石川県に箔の工人がいたのではないかといわれています。後に、幕府は江戸に「箔座」なるものを設け、全国の金銀箔類の製造・販売を統制しました。これによって金箔の製造は、江戸・京都の箔屋以外には許されなくなり、金沢でも箔類の製造・販売はできなくなりました。
しかし、金沢では密かに箔打ちが続けられたり、真鍮や銅箔製造の名目で、実は金・銀箔の隠し打ちをしたりしていたそうです。江戸幕府は、三度にわたって金沢に箔打ち禁止令を出していたといいますから、金沢の箔職人は根性があります。
やがて明治維新で江戸幕府の崩壊によって箔の統制はなくなり、その庇護下にあった江戸の箔業も消滅します。最大の供給源であった江戸箔がとだえる一方、金沢箔の生産・販売は自由になり、全国的に名をあげることになりました。第一次世界大戦の際には、生産できなくなったドイツの箔に代わり、金沢箔が一躍世界の市場に進出し、「日本に金沢箔あり」と知られるようになりました。
…といったさまざまな歴史的背景が、大きなポイントとなっています。優秀な箔打ち技術をもつようになったのは、技術統制下にあり、純度の悪い材料から密造しなければならない時期が長く続き、経験と工夫を積み重ねた結果、技術が磨かれたため。今となっては江戸幕府の政策もありがたい試練だったと思われます。
さらに、箔の製造に適した気候、よい水質に恵まれていたことも重要なポイントです。
そしてなんといっても、「加賀藩前田家の優雅な気質」は外せません。前田家5代藩主・綱紀を代表として、前田家は文化や美術工芸にたいへん力を注いでいました。美術工芸などに金・銀箔は欠かせないもの。金沢箔の歴史は前田家の気質・趣味趣向があってのものでした。
今では金沢は、全国生産量の99%、銀箔・洋金箔・上澄においては100%のシェアを誇る産地です。これもひとえに、昔から今日の箔職人の皆様、金沢の風土、前田家の皆様、そして金沢箔をご愛顧くださる皆様のお陰です。金沢を代表して箔座よりお礼申し上げます。