佐渡(トライアスロン?)金山レポート
世間では夏休みの最後の週末。8月30日から9月2日にかけて佐渡島に行ってきました。目的はずばり「佐渡国際トライアスロン」(Aタイプ)に出場するためでした。佐渡トラは今年で3年目です。3年前はBタイプと呼ばれるミドル(スイム2km、バイク105km、ラン20km)に出場、昨年はAタイプの抽選に外れたのですが、リレーの追加申し込みが出て、それに申し込みバイクパートをやりました。そして今年は念願の抽選が当たって初めてのAタイプ(ロング)に出られることになったのですが、抽選が当たったことがわかったときはまだ、アキレス腱の故障により走れる状態ではありませんでした。ちょっと無理かなと思っていたのですが、じょじょに走れるようになってきて、8月はかなり追い込んでなんとか出場に間に合わせることができました。ただ治ったわけではないのでかなりの不安がありましたが。そしてレース当日。台風が温帯低気圧に変わったのはよかったのですが、海は大荒れ。あまりの荒波のためスイム3.8kmはスタート1時間前に中止の決定となり、バイク190kmとラン42.195kmだけとなりました。それでも相当厳しいのは変わりありません。スイムはもっとも時間的に短いので。バイクとラン、両方ともなんとかこなし11時間19分で完走。765人中の220位でした。足の故障リハビリ中であること、そして初めてのロングであることを考えるとこの結果は上出来でした。
さて金曜日に佐渡に入り、選手受付を行い、土曜日は一日時間が空いたので佐渡金山に行ってきました。今週はこの佐渡金山をレポートしましょう(って前置き長すぎ!)。
まずはその沿革から。以下は史跡佐渡金山のweb siteから
「佐渡金山は、1601年(慶長6年)山向こうの鶴子銀山の山師3人によって発見されたとされ、本格的な開発が始まりました。以降盛衰を繰り返しながら平成元年3月31日まで388年間採掘が続けられました。この間に採掘された鉱石は1500万トンに及び、金78トン、銀2300トンを産出した日本最大の金銀山でした。坑道の総延長は約400キロに達します。このように、江戸時代から平成まで操業が続けられた佐渡金山には、国内の鉱山ではもはや見ることのできない多くの史跡、産業遺産が残されています。」
佐渡金山という名前から金だけを想像しがちですが、実は銀もたくさん取れていたのですね。両津港から佐渡島の中央を横断する国道350号線をくだり、相川を経由して約1時間、30kmのドライブです。その途中に上記の鶴子銀山の看板がありました。佐渡島には10個以上の金銀鉱床があり、多くの金銀山が開発されてきましたが、その中でも「相川金銀山」は鉱脈も大規模で、採掘箇所も格段に多いので佐渡島を代表する金銀山として「佐渡金山」と名づけられたようです。佐渡スカイラインを海側から入っていく途中に佐渡金山が現れます。まず見えてくるのは「道遊の割戸」とよばれる山が二つに断ち割られたところ。まるでDuneのwormが砂漠から広げている口のようです。(SFおたくのたとえですみません。)鉱脈の露頭を尾根から掘り取った跡だそうです。初期の採掘はこのような山の尾根や沢筋の露頭を見つけて採掘を開始したのですね。
佐渡では平安時代の末ごろからすでに砂金が発見されていましたが、沿革にもあるように本格的に佐渡金山の採掘が始まったのは1601年(慶長6年)になります。この年に江戸幕府の天領となり、最盛期は1615-1634年の元和初期から寛永中期ごろといわれています。明治時代になると金山は政府の方針により官有化され、英国人専門家を呼び、近代的鉱山技術が導入されて生産額も増えていきました。1889年(明治22年)宮内庁の所轄になり、1896年(明治29年)には当時の三菱合資会社に払い下げられました。その後1918年(大正7年)に三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル)に引き継がれ。1989年(平成元年)3月31日、鉱量枯渇のため採掘中止。現在は総延長400kmにも及ぶ坑道のうち約300mが観光ルートとして公開されています。ちなみに平成元年の操業中止までの388年間に採掘された金78トンの歴史的内訳は、徳川時代41トン、明治時代8トン、大正時代7トン、昭和時代22トンということです。人力で取れるリッチな部分に関しては徳川時代にほぼ掘りつくし、昭和に入ってからはおそらくその採掘および精錬技術の進歩によって再び生産量が増え、それによってほぼ掘り尽したということなんですね。
現在観光用に公開されている坑道に二種類あり、一つは宗太夫坑、もう一つは道遊坑です。僕は今回は江戸時代の鉱山の様子を再現した宗太夫坑に入ってみました。70体もの人形が当時の採掘の模様を再現しています。ちなみに道遊坑の方は明治から昭和の機械化された佐渡金山の姿を紹介しているようです。残念ながらこちらのほうは時間が足りなくて回ることができませんでした。
予想していた通り、採掘から選鉱、精錬、鋳造にいたる過程をすべて人力により行うことの大変さがよくわかりました。昔の金の価値の根源はやはりそれを作り出すためにかかったエネルギー(=人力)の総和だったのでしょうね。
坑道掘りの技術は1595年(文禄4年)頃に石見銀山から伝えられたそうです。これにより採掘場を多数設けることが可能になり、佐渡金山が本格的に開発されました。しかしあまりに過酷な環境のために、江戸後期幕末にかけての100年間には江戸や大阪から2000人近い無宿人(故郷をすてて、江戸や大阪や長崎などの都市に集まり、戸籍からはずされた人たち。捕らえられ佐渡に送られた。)が佐渡に送られて水替人足という厳しい仕事に従事させられたようです。水替人足とは釣瓶や手桶で坑内に湧き出す水をひたすら汲みだす仕事です。江戸時代に生まれて水替人足にならなくてよかったと心のそこから思いました。
この坑道の最後には資料館があり、そこにも興味深い展示がいろいろとありました。坑道の模型、採掘から小判や大判鋳造までの過程などなど。そして警備員もいないところに三菱ブランドのゴールド・ラージ・バー(約12.5kg)がケースに入って展示されていました。このケースには丸い穴が開いており、そこから手を入れてラージ・バーを掴み、それを見事に穴から出すことができれば、それがもらえる、わけではありませんが、何か記念品がもらえるそうです。僕は片手で持ち上げるところまではいきましたが残念ながら取り出すことはできませんでした。ちなみにケースには防犯カメラで見張っています、といったことが書いてありました。念のため(笑)。
ほんの短い時間での訪問でしたが、職業柄?もあって僕にとってはとても興味深いところでした。もし佐渡島を訪れることがあれば、ぜひ行ってみることをお勧めします。
以上。
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